夜学バー読みもの/尾崎昂臣(Jacky)
(前略)
ぼくにとって「ドリトル先生」は、ある場面の記憶だった。それは、少年が雨の中ドリトル先生と出会い、先生の家の台所で服を乾かし、肉を食べるという場面である。(中略)
そこは、ひとが立って入れるほど大きなストーブ(!)があって、世界一便利で気分のよい台所である。なにしろ博物学者の家だからどこを見てもすてきなものであふれている。しかも動物たちがいる。これがまた礼儀正しい。ケンカをしたりそこらにフンをしたりしない。そしてドリトル先生は彼らと話ができる。そんなにえらい先生なのに少年を子ども扱いせずに対等のおとなのように話をしてくれ、おまけにストーブの火であぶったソーセージまでごちそうしてくれるのだ。そういった、さまざまのすてきなことが集まった台所だったのである。さらにこれをきっかけに、少年はドリトル先生の助手になり、さまざまなことを教わり、冒険の旅に出ることになるのだ。
改めて読んでみると、それは物語の始まりのエピソードのひとつにすぎず、このあと中心的な話題の航海に乗り出すのだが、ぼくにはやはりこの場面がいちばんいいシーンのように思えた。そしてなぜここを覚えていたのかわかるような気がした。ここには、すてきなひと、すてきなこと、すてきなもの、すてきな運命が集まっているのである。
おそらく、子どものぼくが、具体的な形としてあるいは言葉として描けなかったあこがれのイメージを、形にして、見せてくれたのがその場面だったのだろう。これだ! と思ったぼくは、それを記憶の部屋の陽当たりのいいところに置いたにちがいない。何度も何度もその場面をくり返し思い出し、味わったのだ。(中略)
さまざまな本を読んだ。人生の本も実用の本も読んだ。それらは世界を教えてくれ、役に立っただろう。だがそういう本を読む素地、感性、別の言葉でいうと、世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できるという感覚を、ドリトル先生の台所は育ててくれたのではないか、ぼくを支え、応援し続けてくれたのではないかと思うのだ。
(後略)
岡田淳『図工準備室の窓から 窓をあければ子どもたちがいた』偕成社、2012年11月
「で、僕に関しては、『カメラ・トーク』『ドクター・ヘッド』『犬キャラ』と歌詞を書いてきて一向に治らない性癖というか、なんつーの? 遠心的っつーの? 絶対に求心的ではなくって……。そういう部分はまったく他人から浸食されないであるなあ。で、ほかのは――もちろん価値観はすっごい変わるよ。二十歳ぐらいに考えたことなんてもうほんと笑っちゃうよ」
星座から遠く離れていって
景色が変わらなくなるなら
ねえ本当はなんか本当があるはず
「どうすれば遠心力を求心力に変えることができるのか」
「足りないところ、なぜ遠心力を生んでしまったのか」
「やっぱり遠心力を働かせてしまった、それを求心力にどういったらもっていけるのかと考えた結果、それが今回の引くという判断につながった」
「遠心力を求心力に高めていくときに、人事で本当に高まるんだろうかと」
(参考)