●「ブックバーひつじが」店主との往復書簡
(福岡⇔東京)
>夜学バーさんの屋号にも入っている「学び」(学ぶ姿勢)は生きていく上で必要な技術だと思っています。とはいえ今は学ばなくてもある程度生きられるのもまた現実です。学んだり、知ったり、考えたり、考えて話したりするのはどうしても少し面倒で、面倒だから楽な方を選ぶのができてしまう世の中になっているような気がします。
>そんな中でその面倒さをあえて面白がるような場所が必要だと思い、開いたのが今のひつじがです。
>ともすれば押し付けがましくなってしまう「学び」という価値観を、どうすれば野暮ったくなく周辺の方々に伝え広めることができるのでしょうか。
ルールのないところから、あえてルールのあるところへ飛び込んでいくことの魅力が、僕にはあんまりわかんないのだ。
根本的にルールが嫌いなんだと思う。
ルールに縛られている間は、ルールを守らなければならない。
人はどうやら、意外と、ルールの中にいると安心するし、その中でいかに工夫して「勝つ」か、ということに、熱を上げる。
そう、トランプは、あるいは人狼やボードゲームやスポーツは、最終的に「勝敗」にいきつく。不自由だ。
(少年Aの散歩 2017.02.05)
>「考える」ことを前提においた人たちが集まることで自然と「場の関係」も出来上がっていくものなのでしょうか。
そんな中でルールを知らないままでいるより知っている方が何事も有利に進められるし、例えばルールを守るかあえて守らないかの選択も場合によってはできるかもしれません。そうは言っても世の中には〈強制的に守らなければならない諸々〉があるのもまた現実。毎度毎度ご都合よく事が進むわけもなく、世知辛いですが目は背けられない。だから少なくともそこを泳いでいくために「新しいルールをめんどくさがらず学ぶ好奇心と、それを瞬間的に把握する能力」は持っていたほうが良いし、それも学びの原動力のひとつではないかなあと考えていました。
我々が目指す「円熟型」の場が、仮に「あなた次第」を自由に楽しめる空間のことを言っているとしたら、下手すれば丸投げになりがちな「あなた次第」をどうすれば楽しんでもらえるのでしょうか。またそのために我々場側の人間が日頃できることは何があるのでしょうか。
あたしの世界とあなたの世界が
隣りあい微笑みあえるのなら
それがずっと続く決まりなら
あたしは溝に水を流し込んで
あなたの世界につながる川を
どんなに手間でも作るでしょう
魚が二人の世界の間を
自由に泳ぐのを見ながら
言葉じゃ足りない時には
頬を寄せて抱きしめたい
(Amika『世界』)
自分の世界を引っさげてお店の扉を開き、席に座り、ジャッキーさんや来られているお客さんが時折流す魚を眺めながら、ものすごく心地よく過ごしました。その場にいた全員が話題提供者の声に耳を傾けて、かといって一人が集中して話すわけではなく定期的に話者が入れ替わる様が美しかったです。その《美しさ》を今後の書簡のためにも少しでも分析しようと「考えながら、いる」ことに執着してしまい、一方で自ら魚を流す(お話する)のを少々サボってしまったので、もう少し自分の目に映る皆さんの世界を自分で美しくしようとすべきだったなあとちょっぴり反省です。
そのために我々ができることといえば、まず自分が「その人の《世界》の一部として美しくある」すなわち、「その人の《世界》を美しくさせようと努める」こと。ただし「その人」は時に単数であり時に複数。その場にいる「みんな」の《世界》が、同時に美しくなるような「要素」の一つとして自分が存在しつつ、ほかの「要素」の美しさにも気を配る。(6通目)