●「ブックバーひつじが」店主との往復書簡

(福岡⇔東京)


シモダヨウヘイ:
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尾崎昂臣:
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はじめに

 お店について考えたことは「テキスト」や「ジャーナル」、あるいはTwitterなどに書いてきましたが、これから「文通」のような形で、同じくお店をやっているシモダさんという方と協力して書いてみることにしました。
 夜学バーは東京の湯島(上野近郊)、シモダさんの「ブックバーひつじが」は福岡の白金(天神近郊)にあります。どちらもビルの空中階。遠く離れた別の都市ですが、立地条件としては多少近しいものがあるかもしれません。
 二つのお店の共通点は、「不特定のお客さんたちが約束なしに現れ、座ってものを飲みながら話をする」というところで、夜学バーは「夜学」、ひつじがは「本」という象徴的なコンセプトをそれぞれ掲げています。さらに根本には、「考える」とか「場を共有する」とかいうことがあるんだと思いますが、そのあたりはたぶん本編で。
 言葉を交わしながら、自分だけでは発想しなかったような内容がちょっとでも出てきたら嬉しいです。また、このやりとりがわれわれの「業界」全体に資するものになればよいですね。
 で、その「業界」というのはなんだ、ということも、おいおい考えていきましょう。


1通目(シモダさんからのお手紙)



2通目(尾崎から)


 まず、いただいたお手紙から引用いたします。

>夜学バーさんの屋号にも入っている「学び」(学ぶ姿勢)は生きていく上で必要な技術だと思っています。とはいえ今は学ばなくてもある程度生きられるのもまた現実です。学んだり、知ったり、考えたり、考えて話したりするのはどうしても少し面倒で、面倒だから楽な方を選ぶのができてしまう世の中になっているような気がします。

>そんな中でその面倒さをあえて面白がるような場所が必要だと思い、開いたのが今のひつじがです。

 夜学バーは「考えて話す」をしやすい場になるよう努めています。いや「話す」は必須ではないので、「考えながら、いる」という感じでしょうか。それをみんながしている状態を理想に思っています。
「考えることを大切にする場」なんてふうにいうと、「難しいことに思案をめぐらせ、意見を交換しあう」というような場面を想像しますが、それはあまり意識していません。「そういうことがあっても楽しいな」というくらいです。
 複数の人が同じ場にいれば、当然考えたほうがいいようなこと、というのはあります。それを大切にしていたいというほうが先です。
「この時、この場において、自分はどういうふうにいるべきか」を考えるのが大切であって、「すぐれたアイディアをひねり出す」というのは二の次、三の次。それは「会議」や「ブレインストーミング」、あるいは「勉強会」みたいな場に適したことで、バーやスナック、喫茶店といった小さなお店で学べるのは、主には別のことです。

 お店にはいろんな人が来ます。知らない人もいます。これまで出会ったことのないような種類の人もいます。あまり合わないと思う人もいるかもしれません。そういう人たちと一つの小さな空間を共有するとき、やっぱり「考える」ということが大切になってきます。
 知らない人とコミュニケーションを取るのは、少し大変です。「考える」ということが伴うからです。「考える」を避けたければ、知らない人とは関わらないのが一番。でも、もしも相手が「知らない人と関わりたい」と思ってその場に来たのだとしたら、その人を無視することはその期待を折ることになります。「関わりたいならそっちからアプローチしてくるべきだ」とも考えられますが、「関わりやすそうな雰囲気」がなければ、なかなか難しいものです。その雰囲気を作るためには、やはり「考える」が要るのです。
 ある場において、「適切に関わりあう」ことが起こるためには、「考える」が必要になります。しかも、その場にいるみんなが同時に「考える」をしないと、なかなか成立しません。


 ここからしばらく、たとえ話です。

 お店に何度か通って、店主とすっかり馴染みになったAさんがいるとしましょう。店内にお客はAさんしかいません。Aさんは店主と楽しくお話をしています。そこへBさんがやってきました。Bさんは初来店で、店主ともAさんとも面識がありません。
 店主はBさんから注文を聞いてドリンクを出すと、Aさんとの会話を続けます。
 Bさんは、「誰かと関わりたい」と思ってその店にきました。それはAさんも同じです。ただAさんは、すでに店主と関わることができていますので、新しくBさんと関わらなくてもさみしくありません。だからAさんには、Bさんに話しかける特別な動機は特にありません。
 もちろん、もしAさんが「若い女の子と話したいと思っているおじさん」で、Bさんが「若い女の子」だとしたら、話しかける動機はあることになります。が、そういう事情がなければ、AさんにはべつにBさんと話す積極的な動機はありません。
 ただ、Aさんだって知らない人とは話したくない、とまでは思っていないので、Bさんが話しかけてくるのならば応対する気持ちはあります。ただ、今Aさんは店主との会話が盛り上がっていて、特に新しい要素を必要としていないので、店主との会話をただ続けているのです。知らない人と話すのは面倒だし、失敗したくもないのです。
 店主のほうでも、Aさんとの会話は楽しいし、Bさんが会話に参加するかどうかはBさんの好きにすればいいと思っています。もし話したければ勝手に入ってくるだろう、と考えています。
 Bさんは「輪に入りたいな」と思っています。「口は挟まないまでも、自分が同じ場にいるという実感くらいはあったほうがさみしくないのに」くらいには思っています。そう、Bさんは今、さみしいのです。だってBさんは、「誰かと関わりたい」と思ってこのお店に来たのですから。
 店主もAさんも、Bさんのさみしさをわかりません。「さみしいんなら会話に入ってくるだろう」くらいに思っています。しかし、二人は「会話に入ってきやすいような雰囲気や隙」をわざわざ作ろうとはしません。
 Bさんは実は狙っています。「自分が入れそうな場面があったら、うなずいたり笑顔を見せたり、相槌を入れたりコメントを挟んだりしてみよう。もし何か質問をされたら、がんばって答えよう」と思っていたりします。しかし、そういう瞬間はなかなか訪れません。

 ここでポイントなのは、「店主とAさんとの関係はもうできあがっている」ということ。そして「その関係は二者間で閉じている」です。Bさんに向かって、開かれていません。
 なぜそうなるかといえば、それが店主とAさんにとって「楽」だからだ、と言ってしまえるでしょう。
「すでにできあがった関係」は、そのままに保存したほうが楽です。それをわざわざ崩してまで、新しい要素を入れるのは負担(コスト)です。そのコストは、新しく参入する人間(=Bさん)が支払うべきだ、という態度なわけです。
 店主とAさんはいわば、先に人間関係を作り上げているという「既得権益」を持っていて、できるだけ護持していたいのです。
 ここから、店主とAさん、Bさんという「三人の関係」を作っていくのは、店主とAさんにとって「二度手間」です。店主はお店の人なんだからコストを支払うのも仕方ないと思っていますが、Aさんは「自分は客である」という意識なので、「無駄なコストを支払わされるいわれはない」と思っています。
 信じられないかもしれませんが、いま書いていることは、おそらく「ざらにある感覚」です。
 ふつうの人は、「一対一の関係」が楽なのだと思います。それが成立しているとき、その心地よい関係を崩してまで「三人の関係」を新たに作る危険は、おかしたくないのです。
 じゃあ、この場合、店主はBさんを無視するのかといえば、たいていは声くらいかけるでしょう。しかしそれは「店主とBさん」という「一対一の関係」を新たに作り出すだけで、まだ「三人の関係」にはなりません。
 多くの場合、「店主とBさん」という関係がまず、作られます。そしてあるタイミングで、店主がAさんに「この方はBさんといいます」などと紹介します。「ああ、どうも」とでも言い合って、「AさんとBさん」という「一対一の関係」がつくられます。
 Aさんは「店主とAさん」という関係を維持したまま、「AさんとBさん」という新たな関係をつくるので、あまり負担がありません。Bさんもさみしくはなくなります。
 ただ、このトライアングルは「一対一の関係」が三つ同時に存在するというだけで、「三人の関係」ではないのです。だから、そこにCさんがやってきたとき、また同じことが繰り返されるのです。すでに成立しているトライアングルを崩すのは面倒なので、まず「店主とCさん」がつくられます。そのあとで、それぞれのお客同士でまた「一対一の関係」を結んでいくわけですが、人数が多くなればなるほど、その儀式は大ごとになっていきます。ここにDさんが現れたら、また同じことを繰り返すわけですが、AさんBさんCさんはけっこう面倒な手続きを経て「既得権益」を得たわけなので、そう簡単にそれを手放しはしません。やっぱり店主の采配に頼ることになりますが、店主だって面倒なのです。

 いったいこの文章は何を言っているんだ、というと、「一対一の関係」というものの限界を言っているつもりです。
 複数の人が同じ場にいるとき、「一対一の関係」だけでやろうとすると、けっこう大変なのです。しかし多くの人は「一対一の関係」に慣れていて、それでやっているのが一番楽なのです。だからできるだけそれを選びたいのです。
「一対一の関係」だけをやっていれば、「考える」ということは最小限で済みます。同時に意識する相手が二人、三人と増えていくと、「考える」ことが増えていきます。それは面倒くさいし、難しいことです。

 複数の人がいると、単純に、「気をつかうこと」が増えます。
 Aさんは髪が赤いとします。その場合、BさんがCさんに「髪が赤い人って最悪ですよね」と言うのは、Aさんに悪いので、普通はしません。
「髪が赤い」はパッと見てわかるので誰だって気を遣うでしょうが、Aさんが山羊座のO型だとしたらどうでしょうか。BさんがCさんに「山羊座のO型って私、無理なんですよ」とくらい、言ってしまうかもしれません。
「この場にいる人の中に、山羊座のO型がいるかもしれない」と思えば、軽はずみには言いません。たとえば「もしこの中にいたら申し訳ないんですけど、私が自分の経験から、主観で言うだけなんですけど、これまで無理って思った人がみんな、山羊座のO型だったんですよねー」というような言い方をするはずです。
 そういうことをわざわざ考えるのが面倒だから、みんな「一対一の関係」のほうが楽だと思うのでしょう。だから、複数の人がいる場でも、「一対一の関係」を人数ぶん(あるいはより少なめに)作って、あまり余計なことは考えないようにしているのです。相手が山羊座のO型でさえなければ、山羊座のO型の悪口をいくらでも言える気がしますもの。(実際には、相手の家族とか好きな人に山羊座のO型がいて、それによって傷つけてしまう可能性もありますが……。)
「一対一の関係」であれば、その相手に合わせた口調や発声をすればいいだけですが、複数の人に向かって話すときには、誰に対しても失礼のないように、あれこれ調整して話さなければなりません。内容だってよく吟味しなければいけません。それは疲れる人にとっては疲れることです。「考える」ということがより多く必要だからです。


 夜学バーやひつじがのような、「不特定のお客さんたちが約束なしに現れ、座ってものを飲みながら同じ場を共有する」というような空間では、原則としてそういうことが大切になります。「この時、この場において、自分はどういうふうにいるべきか」ということを、常に考えていなければならないのです。失礼のないように。傷つけないように。誰かがさみしくならないように。あるいは、失礼な態度をとるべきときにとり、傷つけるべきときに傷つけ、さみしくさせるべきときにさみしくさせるように。
 そのために必要だと僕が思うのは、「一対一の関係」ではなくて、さまざまな関係のあり方を含んだ「場の関係」というようなものです。それは、その場にいる人たちがそれぞれ考えて、みんなで少しずつ調整しながらバランスを保っていこうという気持ちによって成立するものです。

 さっきのAさんBさんの例でいえば、たとえば店主は「AさんとBさんに同時に話しかける」をする。Aさんはちょっと姿勢を変えて、Bさんのほうにも体を開くようにしてみる。Bさんは、二人に見えるように頷いてみたり、ああ、とかなるほど、とかつぶやいてみる、とか。各人が少しずつ「みんなに向かって開いている」サインを出せば、いつのまにか場は三人のものになっていくはずです。
 みんなが少しずつ「考える」をすることによって、みんなが楽しくなる。さみしくなくなる。難しいことを考えたり話したりすることだけが「学び」なのではなくて、ただ「いま、自分はどうしたらこの場がさらによくなるんだろうか?」と考えることが、場の根本にある「学び」だと思います。

「考えない」という状態は安楽で、リラックスしているということでもあります。それも本当に大切な時間ですが、街には「考える」という状態の手に入りやすい場所があってもいいですよね。そういう場所として、夜学バーも、たぶんひつじがも、存在しようとしているのではないでしょうか。



>ともすれば押し付けがましくなってしまう「学び」という価値観を、どうすれば野暮ったくなく周辺の方々に伝え広めることができるのでしょうか。

 思いがけず「でしょうか」が重なってしまいました。おさまりが悪い。いや、ともかく。
 この引用文のちょっと前に書いてある「知ったり考えたり話したりすることを面倒がらずに面白がる人がせめて自分の周りに増えたら」という気持ちは僕にもありますし、そういう人が実際にけっこうたくさんいる、という感触も持っています。ただ、まだまだですよね、現状。もっといるだろうし、もっといてくれないと困る。具体的には夜学バーやひつじがが経営難で消え失せるか、僕らがやさぐれて腐ってしまう。だからまずは「知ってもらう」ことが大事なのですが、いきなりこんな長ったらしい文章を書くような人が、パアーッと一発で伝えられるような方法を発想できるとは思えませんよね。ええ、苦手です。
 夜学バーの考える「学び」というのは本当に広い裾野を持っていて、それは「知らなかったことを知る」でもあるし、「わかる」「気づく」「できる」といったことを増やしていく営みでもあります。また「上手になる」とか「鮮やかになる」とかそういったことも含みます。「なにかがちょっとよくなる」という表現を僕はよく使いますが、そういうようなことをすべてひっくるめたものを「学び」とか「文化(的)」というふうにとらえています。

「押しつけ」にも「野暮ったい」にもならないための試みとして、先日『小学校には、バーくらいある』という児童小説を自費出版してみました。子どもからお年寄りまで読める平易な文章で、できるだけ面白く、ここにだらだら書いているような内容のエッセンスを封じ込めたつもりです。
 こういったものをコツコツ作っていくのも大事だと思いますが、作ったものが伝わらなければどうしようもありません。とにかくやはり、動くことだろうなと今は思っています。僕もシモダさんもまだ三十代の前半(僕はぎりぎりですがここでは前半と強弁します!)なので、まだまだ動けます。動くというのは、簡単にいえば友達を作ること。お店で人を待つことが何より大切なのは言うまでもありませんが、こちらもちゃんと外に出て、土地や分野にこだわらず素敵な友達を探し歩いていく。それはインターネット上でもいいですし、本の中にだっているかもしれません。
「押しつけ」や「野暮ったい」になってしまうのは、その相手と「対等」ではないからなんじゃないか、と思うのです。押しつけるのはたいてい、「上」にいるつもりの人です。野暮ったくなるのは「凡庸」だからです。上からものを言うほど愚かなことはないし、凡庸なやり方では面白くない。だから「対等で素敵な人たちと仲良くなる」ことがとにかく第一歩だと思っています。凡庸を好む人たちとつるむのではなく、子分みたいな人たちをたくさん従えようとするのでもなく。あるいは誰かを「師匠!」と崇めるのでもなく。とにかく「対等の輪」を広げていくことだ、と思って、僕は休みをつくっては全国を飛び回ったり、こうして福岡の人と書簡を交わすのです。
 と、悪口じみた偉そうなことを言っておりますが、のろいですよね。スピードがのろい。そう悠長なことをしている間に破産してしまったら元も子もないのに。でも僕はたぶんそういう草の根的なことが好きなんでしょうね、もともと。だからこそ、速度のある方法も考えていないと。放っとくとひたすらのんびりしちゃうので。この機会、じつにありがたいです。もっと速度のあるやり口は、さて、あるんでしょうかね?



 僕が一人でものを書いていると、このように、ひたすら長く、周りくどく、結局なんだかよくわからないようなものになります。だからこそ、誰かとおてがみでやりとりをしてみるというのは面白いし、ありがたいと思いました。相対化してもらえたり、なにか全然別の視点から刺激をいただければ至上の幸いです。
 本当に、もうちょっと短い言葉で、わかりやすく、ずばっと書くことに憧れます。そのための練習として、今は長文を書いているのだという気持ちではありますが……。
 ひどいパスですみません、よろしくお願いいたします。

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3通目(シモダさんからのお手紙)



4通目(尾崎から)


「トランプをやっている間は、トランプしかできない」ということをかつて考えていました。たとえば個人サイトのここここここここに出てきます。
 その中から、ちょっと引用。

 ルールのないところから、あえてルールのあるところへ飛び込んでいくことの魅力が、僕にはあんまりわかんないのだ。
 根本的にルールが嫌いなんだと思う。
 ルールに縛られている間は、ルールを守らなければならない。
 人はどうやら、意外と、ルールの中にいると安心するし、その中でいかに工夫して「勝つ」か、ということに、熱を上げる。

 そう、トランプは、あるいは人狼やボードゲームやスポーツは、最終的に「勝敗」にいきつく。不自由だ。

 (少年Aの散歩 2017.02.05)

 シモダさんは、お店という「場」における関係のあり方をゲームに例えてくださいました。「一対一の関係」なら将棋や囲碁、複数の人による「場の関係」であれば人生ゲームやモノポリーなどのボードゲーム、と。そして考察は《勝敗を決めるわけではないから、いつ入ってもいつ出ても大丈夫。そう考えると、特にお店という環境下においては物凄く理想的な気がしますね。》と続きます。
 僕も「勝敗の有無」というのは最大の違いだと思います。「勝敗」に向かって進んでいくのは「求心的」で、そうではなく帰着点がまったくわからないまま進むのは「遠心的」だろうと。(夜学バーHP内のテキスト「遠心的な場をめざして」参照。)

「遠心的な場の関係」、というふうに書くと専門用語みたいになってしまいますが、「不特定複数の人たちが、共通の目的を持たずに場を共有する」というのが夜学バーやひつじがで起きていることなのだ、というくらいの表現が、とりあえずできるかと思います。


「場の関係」のあり方を、シモダさんは二つの型に分けます。「コンセプトしっかり型」と「円熟型」。(成熟型、とも表記されていましたが、僕は円が好きなのでこっちに。)
 これはすなわち、「求心的」と「遠心的」と言ってしまってよかろうと思います。

 そこがどういう場所で、なにが行われるか、ということをあらかじめわかっているような場合が、「コンセプトしっかり型」ということでしょう。テーマやゴール(目的)がわかりやすい。メイド喫茶やブックバー、あるいはカラオケスナックなど。最近だとボードゲーム、カードゲーム系のお店が増えていますが、それも当然こちらに分類されるはず。
 夜学バーも「夜学」というコンセプトがあって、そこで行われているのは「夜学」です。が、そう言われても「夜学ってなんやねん」と、たぶんピンとはきませんよね。だから「コンセプトしっかり型」ではないと思います。

「円熟型」について、シモダさんはこう書いています。
《コンセプトに頼らずその場を構成している人々によって空気感が作られる状態》
《世代も性別も関係なく、ただ「考える」ことで人はゆるく繋がれる》
 夜学バーが心がけていることと相違ありません。強いていえば「ゆるく」という限定はなくてもいい、というくらい。
 シモダさんは(そして僕も)「考える」ということをとても大切にしています。「コンセプト」というのはあらかじめあるものですが、「考える」というのはそこで生みだされるもの。「コンセプト」はそう簡単に揺るぎませんが、「考える」は生々流転、柔軟で流動的なもの。


 ちと話はズレますがこれは「芸術」と「エンタメ」の差に近いものを感じます。
 ほんの数日前、夜学バーで出た話題なのですが、「エンタメ」というのは「確実に手に入るもの」なんだというんですね。(以下、芸術に関する視点の多くは夜学バーのスタッフあすか氏からいただきました。)
 たとえばディズニーランドというのは、そこに行けば絶対に満足感を得られる、と広く信じられている究極のエンタメです。ディズニーに行ってガッカリして帰ってきた、なんて話はあまり聞きません。少なくともリピートする人は「絶対に楽しい」という確信を持って出かけ、「楽しかった!」と帰ってくることがほとんどでしょう。
 エンタメ映画、たとえば「泣ける映画」というイメージで宣伝されているものは、「泣く」という目的を持って行き、「泣けた」「あんまり泣けなかった」という判断をします。「泣けた」ならば「よかった」で、「泣けなかった」なら「よくなかった」です。「全米が泣いた」と言われれば、「全米が泣くくらいだから自分も泣けるだろう、確実に満足感が得られるはずだ!」と安心して観に行けるわけです。

 エンタメ=娯楽は、余裕がない人の求めるものです。余裕がないから、確実なものが欲しいのです。映画を二本見る余裕がなければ、一本で確実に満足したいのです。
 先のあすか氏いわく、先日ミャンマーに行ったらいたるところにシネコンがあって驚いたそうです。かつての日本やインドでも、急成長の真っ只中には映画が大ブームになっていたと思います。それは「がむしゃらゆえの余裕のなさ」だったのかもしれません。(これは本当にただの思いつきのような仮説で、本筋にあまり関係がないのでこのあたりにします。)

 芸術を鑑賞するには「余裕」が必要です。なぜならば、その芸術は自分に何ももたらさないかもしれないからです。さらにいえば、芸術というものは自分から「鑑賞」という行為に踏み込まないと、何も持って帰ることができないものなのです。
 何も得られなくても問題がない、という余裕と、「鑑賞」する余裕がなければ、芸術は何もくれません。
 社会に余裕がなくなると、人々は芸術に向かっていかないので、たとえば美術館は流行らなくなります。話題性をうたったり、うるさいくらいキャプションを工夫したり、作品以外の演出で耳目を引いたりしてお客を集める必要が出てきます。この「芸術がエンタメに寄っていく」という現象は、さまざまな場面にいえそうです。

「コンセプトしっかり型」のお店は、「確実に手に入る」ほうの存在。「円熟型」は、「なにかが手に入るかどうかはわからない」。求心的、遠心的という説明とも重なります。目的がはっきりしているか、そうでないか。
「泣ける映画」は「泣く」ことを求めて行く(そうでない人もいましょうが)わけですが、「芸術的な映画」は、なにをしに行くんだかわかりません。そこからなにを読み取ったり、感じたりするかは「あなた次第」となります。
 それと同じで、「円熟型」も「あなた次第」なのでしょうね。


>「考える」ことを前提においた人たちが集まることで自然と「場の関係」も出来上がっていくものなのでしょうか。

《「考える」ことを前提においた人たち》というのは、たぶん「あなた次第」ということを当たり前に思っています。そういう人たちばかりが集まれば、「遠心的な場の関係」は育みやすくなりそうです。


「円熟型」を「芸術型」と言ってしまうとちょっとカッコつけすぎなのでやめたほうがよさそうですが、「アート」というのはそもそも「技術」や「わざ(コツ)」といった意味がもとらしいので、あながち「円熟」と遠い語ではない気がします。
 円熟した人たちが集まる、あるいはその場にいることで少しずつ円熟していく、その中で「場」や「関係」も円熟していく。なんてイメージがぴったりはまりそうですね。
 夜学バーが「夜学」といって「まなび」を強調するのは、「このお店にいる(通う)ことで、円熟していく」という意味合いが、もちろん、あります。


 で、話はふたたび「そのためにはどうするべきか」に戻ってきます。どうやって円熟した人に来てもらうか、あるいは、どうやって円熟「したい」人に来てもらうか。来てもらった人に円熟してもらうには、どうしたらいいか。さらにいうと、自分や従業員が円熟するためには……?
 はっきり言って、これはすぐにアイディアが浮かぶような領域ではないと思います。この調子で言葉を交わしつつ、少しずつ近づいて行きましょう。

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5通目(シモダさんからのお手紙)



6通目(尾崎から)


 本題(核心)だけ読む方は、→ここから。



 4通目に書いた「ルール」に関するところにまず、シモダさんは反応してくださいました。

 そんな中でルールを知らないままでいるより知っている方が何事も有利に進められるし、例えばルールを守るかあえて守らないかの選択も場合によってはできるかもしれません。そうは言っても世の中には〈強制的に守らなければならない諸々〉があるのもまた現実。毎度毎度ご都合よく事が進むわけもなく、世知辛いですが目は背けられない。だから少なくともそこを泳いでいくために「新しいルールをめんどくさがらず学ぶ好奇心と、それを瞬間的に把握する能力」は持っていたほうが良いし、それも学びの原動力のひとつではないかなあと考えていました。

 僕は基本的に「支配的なルール」言い換えれば「固定して動かないルール」があんまり好きじゃないです。「その都度うつろっていく柔軟なルールをみんなで楽しくキャッキャとつくってく」が大好きです。(むかし架神恭介さんや黒田勇樹さんと麻雀VS将棋ってのをぶっつけ本番でやったときは、みんなで牌や駒を動かしながら少しずつルールができあがっていってめちゃんこ面白かった。)
 そういうことをするためには、ルールを把握する能力、その上で逆手にとる能力、改良してさらに面白くしていく能力、などが必要です。それが実践でき、学べるような「場」をやりたい、というのが夜学バーのテーマの一つでもあります。

「夜学バー」と言われれば「学ぶ場なんだな」と思うのが自然ですが、いざ行ってみたら雑談ばかりしている。「これのどこが学びなんだ?」ではなく「学びかもしれない」と思えば、「なにをどう学べるんだろうな?」とか「どうすれば学びになるんだろうか?」と考えられる。
 たとえば「人間」という題の絵があって、絵の中にも「人間」という文字が書き込まれている。そこから矢印が伸びていて、猫が書いてある。「人間じゃないじゃん」と思うのは自然だけど、「人間かもしれない」と思うこともできる。で、「これが人間っていうのはどういうことなんだ?」とか「どういう視点を持てば、人間ということになるのかな?」と考える。あるいは何も考えず、それをそのまま受け入れることだってできる。
 芸術というのはその余白、余剰の部分(コードやコンテクストからの逸脱)に宿るような気がするのですが、今回本題にしたいことではないのでこのあたりに置いていきます。



 つい昨夜、夜学バーの従業員(イニシャルでいえばK)がこのような話をしてくれました。

「誰か(たとえばお客さん)と向き合うとき、《相手と自分》の一対一の関係を考えるのではなく、《相手と世界》という関係を考え、自分はその《世界》の一部だと自覚する。そして、その《世界》をより美しくさせるにはどうしたらいいか、を意識しているのがよいのではないか」と。

 まったくよくまとまっていて、さすが19歳から夜学バーにきて3年近くも店員を務めてくれている人だ、と感心します。
 相手は《世界》と向き合っていて、自分はその《世界》の一部である。逆にいえば、一部でしかない。相手は《世界》に対して「美しいかどうか」を判断するのであり、自分のみを見ているのではない。もし「自分のみを見ている」人がいたら、それは盲目と言うべき状態かもしれない。

 たとえば、同時に二人の人と対峙するとき。お客が二人きているバーを想像しましょう。例のごとくAさんとBさんとします。店員がAさんと「一対一」で向き合っているとき、Aさんの《世界》の中には店員だけでなく、もう一人のお客であるBさんも当然、含まれています。だから「Aさんの《世界》を美しくさせる」には、Bさんも「Aさんにとって美しい存在」である必要があるわけです。(わかりにくくてすみません。)
 Bさんのほうに目を移すと、Bさんの《世界》には店員とAさんがいます。「Bさんの《世界》を美しくさせる」には、店員とAさんが「Bさんにとって美しい存在」であるべきはずです。
 それは人だけでなく、店内環境についてもそうです。清潔さ。置いてある物たち。情報を持ったあらゆるもの。温度や湿度、明るさや音、空気そのもの……。そういったものたちがみな調和して美しくあることが、素敵な瞬間を作り上げるのだと確信します。優れた喫茶店というのは、そういう空間を日常的に実現させているわけです。

 すると自分の振る舞いというものは、「相手がそれをどう受け取るか」だけを考えて決定するのでは不十分といえます。「相手の《世界》を美しくさせる一要素」としての自覚を持つことがまず重要。場を取り仕切る場ー転ダー(ださい)であるならば、「その人の《世界》の中にあるあらゆる要素」について気を配り、必要ならば調整していかねばなりません。
「AさんとBさんと店員(自分)」の全員が、全員にとって美しくあるようにするわけです。そのためには一人の相手だけを視野に入れていていいはずがありません。「全体を見て、場のバランスをとる」というのは、たぶんこういう話です。
 誤解を恐れずに直截な表現をすれば、「Aさんの意識に入るBさんのあり方を操作し、Bさんの意識に入るAさんのあり方を操作する」ということが、時に必要になってくるわけです。「操作」という言い方をあえてしましたが、「どこに意識を向けてもらうのがいいかを考え、その方向へなんとなくうながす」というようなことです。主には。

 AさんにとってBさんが美しく、BさんにとってAさんが美しくあることが理想で、そのために尽くすのが場を取り仕切る店員の役割の一つです。もちろん自分も美しくあろうとしながら。「まずAさんを気持ちよくさせて、しかるのちにBさんを気持ちよくさせてあげよう」というやり方は、「場」的ではありません。

 もちろんのこと、このような「場」を作り出すためには、お客さんの協力が不可欠です。どれだけ店員が優秀でも、能力には限界があります。もしもAさんやBさんが「私はあなたたちにとって美しくある気なんてさらさらない、あえて醜くいてやる」という意志を持っていたら、どんな努力をしたって素敵な「場」など生まれ得ません。少なくとも、その人からそういう気持ちがなくなるまでは。


 我々が目指す「円熟型」の場が、仮に「あなた次第」を自由に楽しめる空間のことを言っているとしたら、下手すれば丸投げになりがちな「あなた次第」をどうすれば楽しんでもらえるのでしょうか。またそのために我々場側の人間が日頃できることは何があるのでしょうか。


 美しくいてもらう、ということだと思います。多少のブレがある(一時的に醜くなってしまう)のは当たり前ですが、自由というのはやはり、美しさの上にしか安定しないものでしょう。
 そのために我々ができることといえば、まず自分が「その人の《世界》の一部として美しくある」すなわち、「その人の《世界》を美しくさせようと努める」こと。ただし「その人」は時に単数であり時に複数。その場にいる「みんな」の《世界》が、同時に美しくなるような「要素」の一つとして自分が存在しつつ、ほかの「要素」の美しさにも気を配る。そして、そうすることが素晴らしいのだ、ということもその場の成員たちに伝えていくこと……じゃないでしょうか。当たり前のことを言っているだけでしかないのですが。

 こちらはすでに「そういう(ことが良しとされる)場」を作ってしまっているのだから、それを知ってもらうこと、あるいは時に誘導していくことがたぶん大切です。言葉による説明だけでなく、あらゆる角度から表現していくことが肝要になると思います。
 テーブルにお花が飾ってあるか、ないか。たったそれだけのことから、ずいぶん《世界》は変わるはずです。

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7通目(シモダさんからのお手紙)



8通目(尾崎から)

「世界」というのは件(くだん)の文脈の場合、「その人の内面が認知しているもの」というくらいの意味でいいと思います。
「気持ちよくさせる」ではなくて「美しくさせる」というところが肝、と僕は考えますが、こうなると「美しいの定義は?」とまたなるかもしれません。これについては僕には「美しいといったら美しいだ」としか今は言うことができません。それがわかったら苦労はなく、わからないからあれこれと「こうかな?」をやってみる、しかないのです。(これもまあなんとエンシンテキ。)

 その場にいる人たちの内面(心)によって「美しい」と認識されるような状況(瞬間)が生じやすく、継続しやすく、損なわれにくくなるようにあらゆる手を尽くす、というのが世に流行する「場づくり」とかいうものの真髄かと存じます。


 たとえばひつじがのカウンターで、本を読みたくて本を読んでいる人が、その本を「面白い」と思って読み耽っているとしたら、その内面はたぶんずいぶん「美しい」寄りの状態だと思います。それを邪魔して(損なって)しまえば、「美しい」がどっか行ってしまいます。
 しかしその人が、本を読みながら「わあ!」「うおおおっ」「そうか、そうくるのか」「イェヤー! 想像もしない展開!!」なぞと大声で叫び散らしているとなると、その人の内面が美しかろうがなんだろうが、その場にいるほかの人の「美しい」が損なわれてしまう可能性が非常に高くなります。
 仮に、その場にいる人がみんなそれを楽しんでいて「みんなの心が美しい」が実現していたとしても、いま扉を開けて入ってくる新しいお客さんはどうでしょう。わからないのです。わからないからには、そのお客さんが扉を開けた瞬間に「美しい」と感じてもらえる可能性をできるだけ高めておいたほうが良いだろう、と僕は考えています。いつでも誰でも入ってきていい、開放されたお店のバヤイは。

 ところで、ここで「入ってくる人」として想定するのは、もちろん「お店にとって、来てもらえると嬉しい人」です。「どんな人にでも来てもらいたい」と考えるなら「全人類」となるでしょう。「殺人鬼には来て欲しくないな」と思っているのなら、殺人鬼(定義は?)を除外した全人類です。
 殺人鬼は冗談ですが、基本的に、正直なところお店というのは、ごく単純化して言えばお客を2種類に分けます。「来て欲しいお客」と「来て欲しくないお客」。この境界はとても曖昧で、「この人は来て欲しいお客」「この人は来て欲しくないお客」といきなり断ずることは難しいし、ある日に「来て欲しくないお客」だった人がその次の時には「来て欲しいお客」になる、ということもよくあります。来て欲しい(いてほしい)かどうかはその人のその時の「振る舞い」に依存する、というふうにここでは考えます。
 酔っ払って異性にからみ、嘔吐して高笑い、酒瓶を振り回して暴れる、みたいな人はよほどの事情がない限り「来て欲しくないお客」のはずです。日頃どれだけその人が「いいお客」であったとしても、そういう振る舞いをするような時は「来て欲しくないお客」ですよね。普通は。(そうでない場合もあると思います、かわりに一億円くれるとか。その人が天使だったりさかなクンだったりとか。)
「来て欲しくないお客」には来てもらわないほうがいいので、そういう人に来て欲しくないならば、そういう人が開けられない扉(店構え)にするとか、そういう人が開けたいと思わないふうにするとか、そういう人が覗き込んで「つまんなそうだ」と思うような状態にお店を保っておくとか、そういう対策があったほうがいいでしょう。
 逆に、「来て欲しいお客」が開けやすく、開けたくなり、覗き込んだ瞬間に「すてきだ!」と心躍らせるような状態にお店を保っておいたりすると、良いとやはり思います。「世界」づくりの一環として。

 いまいる人たちと、これから来るかもしれない人たちの心にうつるものが、互いに損ないすぎぬことを条件に、美しくあること。
 そのための環境を整えるのが、場を取り仕切る人(店主など)の仕事でしょうね。もちろん「環境」は据え置きのものではなく、刻一刻と変わっていくものなので、お店(あるいは場)が開いているうちは常に「調整」を意識している必要がある、と思います。


「世界」という語を、6通目に書いたKくんの言葉にあわせて考えると、「その人の内面が認知しているもの」で、「その人」の数が増えれば、「世界」の数は当然増えます。そのすべての「世界」が美しくなくては、その場のバランスは悪い、ということになるでしょう。

 あたしの世界とあなたの世界が
 隣りあい微笑みあえるのなら
 それがずっと続く決まりなら
 あたしは溝に水を流し込んで
 あなたの世界につながる川を
 どんなに手間でも作るでしょう

 魚が二人の世界の間を
 自由に泳ぐのを見ながら
 言葉じゃ足りない時には
 頬を寄せて抱きしめたい

 (Amika『世界』)

 突然ですが僕はこのAmikaさんという歌手のことが大好きで「世界でいちばん歌がじょうず」とくらいに思っているのですが、その代表曲『世界』では「それぞれの世界」がいきなり前提とされます。
「誰もさわれない二人だけの国」みたいな、「わたしとあなたの世界」ではなくて、「あたしの世界とあなたの世界」というふうに、別々なんですね。
 世界と世界との間には溝があって、でもそこが川になって魚が泳いだら素敵だし、言葉や身体を使って伝え合うこともできる。
 お店とか「場」というものは、一面、こういうように各人の世界の間をつなぐ川のような存在なのかもしれないな、と思うことがあります。

 ライターとしての仕事で、保育士や幼稚園教諭の方に取材をする機会がけっこう多いのですが、保育や幼児教育において大切なのは「環境づくり」だということはもう基本中の基本だそうです。
 子供たちが衛生的に、安全に遊べるように。その遊びの中で、できるだけ豊かに学べるように。そのための「環境」を設定し、維持し、活用させるのがプロの役目であると。
 Amikaさんの『世界』という曲は二者間の関係について歌っていて、それが「場」となれば成員はもっと増えます。しかし原則は変わりません。多少複雑になった溝にみんなで水を流し込み、魚を泳がせたりする。子供は自分で水を流せないので、大人が流す。川は美しく心地よいように保たれるようみんなが気をつけて、汚れれば掃除をし、もしも生態系をいちじるしく乱す外来種が入ってきたら細心の注意をもって対応する。
「みんなが」とは言っても、現実的には管理者というものがいたほうがうまくいくことは多くて、それがお店の人だったりする……。


 いただいた7通目のはじめにルールの話がありましたが、たとえば川に落ちないようにつくる柵であったり、「この時間は立ち入り禁止です」という取り決めだったりというのが浮かびます。
「コンセプトしっかり型」のお店(または場)はルールがはっきりとしていて、観光地のようにフロー(流れ)が確立している場合が多いでしょう。「円熟型」はもうちょっと自由。
 深夜2時以降は川辺に出てはいけない、と言われているけれども、だからこそ禁を破って遊ぶその時間は楽しくて尊い、というようなことはありそうですね。そのかわり、危ない。
 楽しさと危なさ、というバランスをうまく見極めて采配をふるっていく、というのは、お店をやっていて常に意識しています。

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9通目(シモダさんからのお手紙)



10通目(尾崎から)


 ふつうの人は、「知らないこと」が目の前に現れたとき、まず「知っていること」で代用を効かせようとします。「知らないこと」を明らかにするのは面倒だから、「知っていること」にすり替えて、「わかった」ということにしてしまいます。その手抜きが誤解を生みます。


 たとえば「バー」という言葉について、高いウィスキーや凝ったカクテルをシガーくゆらせながら静かにたのしむ、といったイメージを強く持っている人がいるとしましょう。その人が「夜学バー」や「ブックバー」という言葉を聞くと、「なにそれ?」とまず思うでしょう。知らないので。で、そののちに、自分がいままで「バー」というものについて抱いていたイメージを思い出し、「ああいった感じなんだろうな」とアタリをつけます。そのあと(順序は逆かもしれませんが)、「夜学」や「ブック」という言葉のイメージをもとに、「勉強は苦手だったんだよな」とか「小説好きが集まる感じかな」とか、みごとに言葉をすげ替えた恣意的なイメージを付与していく、かもしれません。

 するとたとえば「夜学バー」は、「自分の学校で優等生と言われていた人たちのような見た目をした勉強大好きなマジメな人たちが、高いウィスキーや凝ったカクテルをシガーくゆらせながら静かにたのしむ」お店だろうということになるかもしれません。
 あるいは別のパターンとして、「夜学というからには毎日テーマを決めてイベントをやっているんだろう」と予想されたり。これはほんとうに多いです。そんなことはどこにも書いていないし、実態もまったく違うのですが、そういうイメージを持たれがちです。世間にそういうお店が増えているから、「いま流行りのああいった類のものだろう」と早合点されてしまうのだと思います。

「ブックバー」の場合は、「好きな小説について語り合っている」とか「みんながめいめい、もくもくと本を読みながら高いウィスキー(略)」とか、そういったイメージになりがちでしょう。でも実際、ひつじがはそういうときばかりではないはずです。「ブック」は小説ばかりではないし、「もくもくと」している人ばかりではないはずだから。


 ここで、「いや夜学バーはこういうお店なんです」「ひつじがはこういうお店です」と明言してしまうと、「こういう」からこぼれ落ちるものが見えなくなってしまう。これが今回の肝と存じます。

 たとえば「知らない人とお話しをする場所です」と言いきってしまったら、黙っていることが許されない印象になります。ただぼんやりとしたり、ゆっくりと本を読んだり考え事をしたり、人の話をただ聞いたりすることはできないのか、というふうに思われるかもしれません。
 夜学バーはそのため、「お話しをする場所です」という言い方を避けています。現実としてはたいていそういうことになるし、そうなるように心がけることも多いですが、常に「そうではない状況」になる可能性は意識しています。会話のない美しい時間もあるはずなので。

 こんなふうに、どうしても説明は長くなります。9通目のシモダさんの言葉でいえば、「保険をかけて長々と回りくどく」。実際、夜学バーのこのホームページはまさにそんな感じですね。誤解を恐れ、ひたすらに長い言葉を書き連ねております。

「相手が知っていること」を伝えるには短い言葉で足りますが、「相手が知らないこと」を伝えようと思ったら、やはり長い言葉になってしまうのです。


 たとえば「季節のフレッシュフルーツカクテル」と看板にあれば、甘くて飲みやすい、健康にも言い訳がききそうな、またおそらくは見栄えも良いドリンクが提供されると予想できます。ウィスキーしか置かないような硬派な(?)お店ではなく、カジュアルな気分で入店しても良いのだろうという気がします。お酒があまり強くなくても、甘いお酒しか飲めなくても問題がなさそうです。
「女性一人でもお気軽に!」と書いてあれば、「女性が一人で入ってもいいんだ」とわかります。当たり前ですが。

 これらは「知っていること」。だから短い言葉でじゅうぶんに伝わります。

「初めてのかたも一緒にカンパイして盛り上がりましょう!」と書いてあれば、「初めて行っても仲間に入れられて、一緒に盛り上がるようなお店なんだな」とわかります。いや、本当に当たり前のことですが。これも「知っていること」なわけです。だから短い言葉でいいのです。

 しかし、「夜学バーです。夜の学びをたのしみましょう。」と書いてあったら、これは意味がわかりません。
 夜学ってなんだ? 夜の学びとは? 何を言っているんだ? いかがわしいお店かな? それともインテリが集まって文学談義(※)でもしているのかな? などと思われるでしょう。

 ※「文学系のお店ですか?」と言われることがたびたびあるのです、僕のプロフィールを知らない人からも。「学」といえばなぜか「文学」。これも「知っていることにすり替える」だと思います。

 ともあれ短い言葉では、相手の知らないことはまず伝えられないのです。「説明不足」ということになります。


「本好きが集まって、本の話をするお店です!」と言えば「本が好きな人たちが集まって、本の話をするお店なんだな」とわかります。

 しかし、「ブックバーです。本が象徴するような人間の文化的な営みを尊重する人たちが動的にまた静的に交流を持つことで、その人たちの生活や内面が豊かになり、ひいては世の中全体を利することをねらいとしています。」と書いてあったとしても、ほとんどの人は「はあ?」でしょう。「なんだか殊勝らしいことを言っているが、結局なにをするところなの?」と。
 この一文をきちんと説明するには、数千字でも数万字でも足りないかもしれません。


「季節のフレッシュフルーツカクテル!」「女性一人でもお気軽に!」とスッパリ強調することで、「わたしでも行っていいお店なんだ」と気持ちが軽くなる人はいるでしょう。「本好きが集まって、本の話をするお店です!」と言ってしまったほうが、「自分は本が好きだし本の話がしたいので行こう」と思いやすい人はいるでしょう。ただ、そこで捨象されてしまうものを、捨ててしまってほんとうによいのだろうか? という話なのです、たぶん。

「女性一人でもお気軽に!」と言われて、入りやすくなる人もいれば、入りにくくなる人もいます。「本好きが集まる」と言われれば、「自分なんか、本好きとまでは言えない」と遠慮する人も出てきます。「本の話をする」と言われたら、「自分はそんなに詳しくないからなあ」とか「本の話ばっかりするのもきゅうくつだなあ」とか、いろんな角度から二の足を踏んでしまう人もいると思います。
 そういうふうに、言葉一つからいろいろなことを考えてしまう人こそ、夜学バーやひつじがにとって「来てほしいお客さん」である可能性は高いでしょう。わかりやすい、伝わりやすい言葉は、そういう人を逃してしまいかねません。

 伝わりやすいがゆえに、「それをマイナスに感じる人」を瞬時に排除してしまうのです。
「スポーツ観戦できます!」と言われれば、「スポーツ観戦しなけぁいけないのかあ」となります。「カラオケ歌い放題!」と言われれば「カラオケは苦手だなあ」と。ほぼ自動的に「自分はお呼びでないのだな」と判断されます。

 僕が大切だと思っているのは、「いったいどういう場所なんだ?」「自分がそこに行くメリットはあるのか?」と検討してもらうことです。
 瞬時に「自分とは関係ない」と判断されたり、はんたいに「まさに自分にぴったりの場所だ!」と即断されるのではなく、「夜学バーとはなんだ?」「自分が行くべき場所なのか?」といくらか立ち止まってもらえたほうが助かります。
 なぜかといえば理由はさまざま。一つだけ言うなら、狭いお店なので、できるだけ「思慮」というもののあるお客さんに来ていただいたほうが、うれしいからでしょうか。

 もちろん、「夜学バーだと! そりゃ行かねば」と即座に思って来てもらえたら「もっとうれしい」可能性もあります。「店名の時点で行くしかないと思った」が命名者たる僕にとっては至上の讃辞でもあります。しかしその人がどのような「思慮」を持ち合わせているかというのは、別の話です。


 ごく狭いお店は、事実上「客を選ぶ」をしなければ楽しく続けることは困難です。そこで夜学バーは、「短い言葉から好奇心と思慮を持って想像してくださるお客」や、「長い文章をしっかり読んで理解を深めてくださるお客」を呼びよせたいと思ってやっています。
 たまたま通りがかって「夜学バー」という看板を目にし、そこに貼ってある名刺のごく短い文章から想像をめぐらせ、十五秒くらい考えたあとに「鬼が出るか蛇が出るか」と暗くせまい階段をひとあしひとあしのぼりながら、「一体どんな店なんだろう?」と思いを募らせてくれるような人。
 たまたまネットで見かけてホームページの長々としたテキストに出会い、「面倒くせえなあ」と思いながらもいくらか読み進め、「これは果たして自分を利する存在なのだろうか?」と熟考し、暫定的な答えがマルに傾いた頃合いで「えいや」と思いきってお店まで来て、重い扉を開けてくれるような人。

「知らないこと」が目の前に現れたとき、「知りたい、知ろう」とまず思うような人。





 ……まとまらないまままとまってしまいました。

 そもそものシモダさんのご質問は、《「書くこと」と「書かないこと」の塩梅》をどうやってつけているか、ということだったのですが、あまり答えになっていないですね。

 めっちゃ簡単に言っちゃえば、「その都度、効果的であるよう調整して書く」でしかないのですが、そこをもう少し詳しく考えてみます。
 僕は小説や詩も書きますし、ウェブ日記も書きますし、ライターとしての仕事では個性や客観性を依頼に応じて変えて書きますし、このような「店主としての文章」も書きますが、そのすべてに共通することを。


「すべて」を書こうとは思わず、「ここだけは絶対に伝えなければならない」というところは絶対に書き、「ここからは読む人に埋めてもらおう」とか、ともすれば「ここは読む人に悩んでもらおう」といったところは、書かないでおく。つまり、「読者のつけいる隙」を残します。
 そうすると、そこでその文章に(言葉に)主体的に関わろう、と思う人が、「面白い」とか「気になる」と感じてくれる、と信じます。

 表現を変えれば、「自分に関係があるかもしれない」と思ってもらうために、すべてを書かないでおく、ということです、たぶん。

「季節のフレッシュフルーツカクテル!」は、「関係がある」人と「関係がない」人を明確に分けると思います。「女性一人でもお気軽に!」なんか、さらにそうです。
「すべてを書いている」からです。
 一方、「夜の学びをたのしみましょう」は、自分でも何を言っているのかよくわからない文なのですが、おかげで誰が見ても「自分に関係があるかないかよくわからない」というものになっていると思います。
「関係がある」と思うためには、この文に対して、主体的に関わらなければなりません。
「こういうふうに考えれば、自分にも関係があるのかもしれない」という「こういうふうに考えれば」の部分は、読み手が埋めます。

 教養というのは一説によれば「自分と世界(過去未来宇宙に及ぶあらゆるもの)との関係をより知っていること」というようなふうに考えられます。(参考文献:浅羽通明『教養論ノート』、阿部謹也ほか『いま「ヨーロッパ」が崩壊する』)
 だからというのでもないですが何かに対して自分と「関係がある」と(思考を通して)判断することは、ものすごく知的な行為だという気がします。
 その余地、余白を残すために「書かない」を選択することは、とても高級な書き方だと思うわけです。

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11通目(シモダさんからのお手紙)



12通目(尾崎から)

「11通目」にあるとおり、3月18日の庚申の夜にシモダさんにおいでいただきました。60日に一度、夜学バーが朝まで営業する日です。夜中から朝方までいらっしゃいました。
 こちらがそのご感想の一節。

自分の世界を引っさげてお店の扉を開き、席に座り、ジャッキーさんや来られているお客さんが時折流す魚を眺めながら、ものすごく心地よく過ごしました。その場にいた全員が話題提供者の声に耳を傾けて、かといって一人が集中して話すわけではなく定期的に話者が入れ替わる様が美しかったです。その《美しさ》を今後の書簡のためにも少しでも分析しようと「考えながら、いる」ことに執着してしまい、一方で自ら魚を流す(お話する)のを少々サボってしまったので、もう少し自分の目に映る皆さんの世界を自分で美しくしようとすべきだったなあとちょっぴり反省です。

 美しい、と表現していただけて感激の極みです。

《もう少し自分の目に映る皆さんの世界を自分で美しくしようとすべきだったなあとちょっぴり反省です。》

 この一文は、ちょっと難しいですね。


 おそらく僕の以下のような言葉を受けて書いてくださったのでしょう。

そのために我々ができることといえば、まず自分が「その人の《世界》の一部として美しくある」すなわち、「その人の《世界》を美しくさせようと努める」こと。ただし「その人」は時に単数であり時に複数。その場にいる「みんな」の《世界》が、同時に美しくなるような「要素」の一つとして自分が存在しつつ、ほかの「要素」の美しさにも気を配る。(6通目

(このあたりの話は、このへんからざっと読んでいただけると多少、わかりやすくなるかもしれません。)

 上記引用を踏まえると、「自分の目に映る皆さんの世界を自分で美しく」というのは、「皆さんの目に映る世界を(自分の意思によってより)美しく」ということと同義でしょうか。



 僕(ないし夜学従業員のkくん)の考え方の基礎は、「自分が見ている世界=自分の世界」と「ある他人が見ている世界=ある他人の世界」というふうです。
 他人の世界を美しくさせるには、その一要素である自分が美しくあること、あるいはその他の(無数の)要素を美しくあらしめんと努めることです。


 たとえば夜学バーのような小さなお店にいて、そこにいる「ある他人」の世界を美しくさせるには、自分がまず美しくありつつ、その他の要素(たとえばそのほかの人)も美しくあることを目指さねばなりません。

 自分がムスッとしていたら、「ある他人」の世界は「ムスッとしている人がいる世界」で、自分がニコッとしていたら、「ニコッとしている人がいる世界」になる。後者の世界のほうが美しいのだとしたら、ニコッとしていることが、「ある他人の世界を美しく」させることになります。

 ということは、AさんとBさんと自分がいる状態で、Aさんの世界を美しくさせるには、自分だけでなく、Bさんもニコッとしていたほうがよいです。自分はもちろんニコッとしつつ、「Bさんがニコッとする」状態を作ることをも同時に目指す、というわけです。

 当然、まったく同様に、Bさんの世界を美しくするには自分とAさんがどちらもニコッとしていたほうがいいので、AさんBさん双方の世界が美しくなるには、自分とAさんとBさんと、みんながニコッとしているほうがいいです。それを目指します。

 さあ、では、「自分」の世界を美しくさせるにはどうするか、というと、この例でいえばやはりAさんBさんの双方がニコッとしていることが必要となります。しかし、他人というのはほっとけば無条件でニコニコしてくれるほど都合のいい存在ではありません。だから、「AさんBさんがニコッとするような態度を自分がとる」ということが求められます。

「自分の世界を美しくせんがため、その場にいる他人(ひいては他人の見ている世界)が美しくなるように、自分が努める」ということですね。


 シモダさんのおっしゃった「自分の目に映る皆さんの世界を自分で美しく」というのは、僕の考え方に従う限りそういうふうにしか解釈できないですが、それでよかったでしょうか。



 いつものように長ったらしく、わかりづらい書き方をしてしまいましたが、僕の考える「みんな仲良く」ということの中身は、以上のようなことです。
 みんながニコッとしているためには、みんながみんなをニコッとさせようとつとめていなければならない、それが「仲良し」ということであるはずです。



 ちなみに、僕はよく、「もっと怖い人かと思った」みたいなことを言われます。文章が硬いんでしょうね。生身だとただのおちゃらけた人なんですけどもね。かわいくてやわらかい存在をめざして、それは今のところ自分ではけっこううまくいっていると思うのですが、それを文章のうえでうまく伝えることがあんまり上手ではありません。伝わるところには伝わるはずなので十分といえば十分なのですが、やっぱりもっと、わかりやすくなりたいですね。精進します。

 自己分析しますと、僕のような人間はよそにまずいないのです。僕のような文章を書く人間もいないはずです。だけど、人は新しいものと出会うと「自分の記憶とのマッチングを試み、最も近いと思えるものと同じ種類のものだと認識しようとする」ものです。僕の文章を読んで「怖い」が出てくるのだとしたら、たぶんそういうことなんじゃないかと思います。その人にとって、この文章の雰囲気に最も近いモノが「怖い」ものだったんだろうなあ、と。
 僕は自分のことをあんまり怖くないと思う(怖い部分がないとは言いません)し、文章も怖いことなんてないと思うのですが、そう思う人がいるのはなんとなくわかります。マジメだと思う人もいるかもしれません。実際めちゃくちゃマジメだとも思いますが、ふざけたズルいやつだという自覚もあります。いろんな側面があるので、どう言われても「まあそういうところはありますけどね」と思うと思います。占いのようなもので。

 たぶんお店もそうですよね。いろんな側面があるから一言では言えないし、いろんなふうに受けとる人がいてあたりまえ。
「夜学バーってどんなお店ですか?」と聞かれたときの、万能な回答というのは僕も持っていません。相手を見て、場を見て、適当だと思えることを即座に考えて(時には苦し紛れに)言うのみです。そこは対機説法しかありません。その能力をひたすら磨いていこうと今は考えています。
(2020/04/24金)

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