文責は番頭(Jacky)。夜学バー日録。
 第二期、2019年7月5日〜2019年12月31日

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※URLに「#20200101」などをつけると、その日付の記事に直結するユニークIDになります。ご活用ください。
2019/07/05金
 ついに「日報書いてくださいよ!」と言われたので書くことに。2月ごろからさぼっておりました。また気楽に続けます。これより以前は「第一期」として格納しました。
「日報書いてくださいよ!」と言ったのは、ずいぶん前からのお客で、しばらくのあいだ東京から1500km以上離れた場所に住んでいた人。その間はあまりお店に来られなかったので、遠くからでも(ある程度は)店の様子のわかる「日報(ジャーナル)」が、もしかしたら少しは役に立った(?)のかも。
 上京のたび彼は寄ってくれていた。そういう人がいる限り、できるだけ休みは作りたくないものだ。灯火を絶やさないこと。たとえ建物が崩れても、ちょうちんだけはまっすぐおりる。なんて武田鉄矢さんのご母堂が阪神大震災のおり言っていたらしい。

2019/07/06土
 50〜60キロほど離れた土地から通ってくれている大学生のお客が、アルバイトの職を得た。ある中学生の家庭教師をすることになった。その中学生は夜学のお客の子供であり、当然その話はお店でまとまった。今日は三名の顔合わせが行われていた。結果的に仲介役となった僕もいて、また初めてのお客もいた。それでいてバランスは悪くはなかった。
 初めての方は、慎重に立ち位置を選んでくださっていたと思うし、だから僕もそれほど気を遣わず、全体を見ながら適宜立ち位置を(物理的にも)動かし続けた。こういう日はよい訓練になる。お店に慣れている人と、慣れていない人たちが、さして「気遣い」のようなものをせず、フラットに自然に居られるような状況をつくるのはけっこうむずかしい。
 中学生は、日本の歴史やお城なんかに興味があるようだったので、戦国時代の日本と古代ギリシャの戦争とを引き合わせて考えてみたり、元素のイオン化傾向と技術発展の歴史との関係について少し話してみると、深く興味を抱いたようだった。野球も好きなようだから、そういう話題にもけっこうなった。そして「みんながなんとなくわかる」という範疇を出ない。基本的には、他愛もない話が続いたり、親子のじゃれ合いを眺めたり。
 もし、とりわけ野球を好きな人が二人出会って、ほかにもそこに人がいた場合、その二人は二人の世界にいったん潜ってもらって、その他の人はその他の人でまた別の場をつくることになるかもしれない。一つの空間に場が二つ、という感じ。そしてまたそれが分解され、統合されたり新しい組み合わせになったりして、空間の場は流動していく。
 親子が帰ったのち、「ミッション系のミッションってなんだ?」という話題から、キリスト教だスピノザだハイデガーだ、存在を疑うとは、東洋と西洋とは、仏教と言語論的転回、とかいうふうになっていった。要するに少々こみいった話題である。
 夜学バーのよい(と僕が思う)ところは、「場が話題を決定する」が原則であること。「ミッション系(の学校)」というかなり一般的なキーワードから「どこ」に行くかというのは、「場」つまり、そこにいる人たちのさじ加減で決まる。どこに行ったっていい。そこで「スピノザ」が出たときも、次に「どこ」へ行くのかというのは、またその都度、みんなが決定するのである。
 たまたまその時、その場にはそういうこみいったことを考えたいタイミングの人たちがそろっていたので、そういうことになった。もしその中の誰かが、たまたまそういう気分でなかったとしたら、そういうふうにはならない。(さるべし。)
 よく「難しい話とかできないけど、夜学バーに行ってもいいですか?」と聞かれることがある。もちろん、ぜひお越しください。どういう「話」になるかは、みんなの気分や雰囲気でなんとなく決まっていくのであって、「みんな」というのには常にあなたもふくまれる。そして、このお店は本を読むような人ばかりが来るわけではないし、大卒ばかりが集まるのでもない。いろんな人がいる。共通するのは、「考える」ことが苦でないタイミングが多かったり、「楽しい」空間のバランスをとることが心地よかったりする、ということくらいだと思うので。
 ほんとに、出る話題というのは、そこらへんのスナックや居酒屋、ないし喫茶店で出る話題とさして変わらないことも多い。でも、たぶんちょっとだけ雰囲気は違う。その鍵は、「そこからどこへ行ってもいい」という自由さにあるだろう、とやっている側としては思っている。

2019/07/07日 あすか
2019/07/08月 小津

2019/07/09火
 前半は静か、後半にやや人が増える。平日は(理論的にも?)こういうことが多いはずで、早めにくると僕と二人きりだったりします。そっからだんだんお客が増えていったり、また減っていったりするのを眺め、「場の変化」を楽しむのがこういう小さなお店の醍醐味だったりします。そういう日も、たまにはつくってみてくださいませ。
 しっているお客さんがしらないお客さんを連れてきてくださる、というのがふた組あった。こういうのはとてもうれしい。連れてこられたほうの人が、一人できてくれるようになるのはもっと嬉しい。なんだってお客さんがくれば嬉しい。ありがたや。

2019/07/10水
 ちか氏復帰のはずだったけど諸事情で延期。小津くんも月一にしてもらったので、しばらくはスケジュールにjの字が並ぶことでしょう……。開店当時みたいで懐かしい。
 平日の夜。22時くらいからどっとお客が増えた。それまではまるっきり閑古鳥だったんだけど。いろんな動きをするからお店は面白い。
 日曜、あすかさんの日にいらっしゃったという方が、またジャズボール(仙台の「リチクク」という店がオリジナルの公認パクリカクテル)を飲みに来てくださった。二杯も。なかなかこれにはまってくださる方は少ないのでうれしい。「ネーポンクリームソーダ」という情報過多なメニューを頼んでくださった方も。よかった。ちょっと急に人が増えたのと、油断して僕もめずらしく(めずらしく!)お酒をちょっと(ちょっと!)飲んでいたので、パフォーマンスが完全でなかったかもしれない。
 お酒が入っている状態の自分を冷静に見つめながら営業するのも、夜学バーでの(僕自身にとっての)学びの一つなので、とてもためになった。けっこう飲んでも様子がおかしくなることはないけど、それなりの変化はあると思う。気になる人は、よーく観察してみてください。

2019/07/11木 k→sue

2019/07/12金
 前半、むかし週一で働いていたお店(ゴールデン街)や前にやっていたお店(西新宿・おざ研)にも来てくれていた古いお客としばらく二人きりだった。10年近く前からの付き合い。当時お店が新聞に乗った(そんなこともありましたねえ)ことをきっかけに知ってくれて、縁が続いている。彼の今いる業界の話などを聞いた。楽しい時間だった。
 20時か21時くらいからお客が少しずつ増えていった。はじめてのお客さんもいたし、アメリカから一時帰国している友人(はじめは「おざ研」のお客)、ほんの数十分しかいられないのに来てくれた人など、さまざま。古くからのかたもいれば、最近通うようになったかたもいて、はじめてのかたもいる、というので、バランスがとてもよかった。

2019/07/13土
 ある小説の一節に「You always know after you are two. Two is the beginning of the end.」というのがある。僕の個人サイトでは何度も何度も何度も引用してきた。著作権も切れていることだしあえて作品名は伏せよう。「きみたちだって、二つになれば、それがわかるようになる。どんなことだって二回くりかえせば、いきつく先が見えてくるものなのだ。」と芹生一(せりうはじめ)という人は訳した。おっと、こっちは著作権が現存するので、引用元を書かなくては。(なんのこっちゃね。)J・M・バリ『ピーター・パンとウェンディ』(偕成社文庫)より。
 そういうわけで、僕は「一度きてくれたお客が、またきてくれる」ということがうれしくてたまらない。二回、ということは非常に重要な意味を持つ。今日は「二度目」のかたがたぶん3名。「お店は初めてだけど、僕と会うのは二度目」という方が1名。「僕とは何度も会っているけど、お店に来るのは二度目」もいたかな? 三度目だっけ。
 関西からお越しの方も2名。なんだかいろいろと今日はとりわけ幅広く、じつに楽しかった。
 うれしかったのは、いつのまにかトイレのお手拭きペーパーを交換してくださったかたがいたこと。本来は僕が気づいて換えるべきなんだけど、どなたかが気を利かせてやってくださったようだ。こっそりと。
「勝手」という言葉は、「勝手がわかる」とか「勝手知ったる」といった具合に、悪くない意味でも使われる。「お勝手」もそうか。なんというか、そういうふうに夜学バーを「勝手」にしてくださるのは、ありがたい。どこのどなたか存じませぬが。
 それと、「押上のライフに寿がきやの袋ラーメンが売っていましたよ!」と教えてくださった方にも多大なる感謝を。名古屋人なので(ここは頑として因果関係を主張)スガキヤと寿がきやには目がないのだ。買いに行かなきゃ。
 Sugakiyaのロゴを見て「あ、ジャッキーさん」とか思ってくださったのだとしたら、このうえない幸せ。
 クリームソーダ、ネーポンクリームサワー、ミルクセーキ、コーヒー(同時に三杯、計四杯)など、喫茶系のメニューがたくさん注文していただけた日でもあった。これも幸い。

2019/07/14日
 静かな日。前半は十数年前からの友達(ちょっと年上)とよもやまの話。後半はけっこう長いあいだ、またべつのお客と二人でお話ししていた。明日が祝日とはいえ、天気も悪かったせいか、街も人が少なく、お店もちょっと、時間が止まったようだった。日曜は本当に、いちばん読めない。
 こういう日は、経営者としては心配にはなるけれども、ゆったり、深く話ができたりはして、楽しい。
 かなり仲が良い相手でも、煮詰まってこないと出てこない話というのはある。二時間とか三時間、話し続けて、沈黙も多くなってきたような頃に、ぽろっと言った一言が、ものすごく重要な流れのきっかけになったりする。クリッと音を立てて、空気が変わる。目の前がパアッと、華やかに広がる。そこからは、乗ってきたセッションのように進む。心地よき時間。
 それでいろいろとわかったり、言葉にできたりした。そういうことが明日からの営業にまた役立っていく、はず。

2019/07/15月
 雨、連休最終日。とて平常でいたい。でもダイレクトに客足には影響する、と思う。

 6月くらいから「ほんとにちかごろふけいき」って感じだった。
 一般論的にいえば、GWにお金を使ったぶん6月は消費を控えがちとか、しばらく祝日がないから遊ぶ体力が作りづらいとか、梅雨だとか、暑くなったと思ったらなかなか暑くならなくて戸惑っているだとか、いろいろあったと思うんだけど、実のところ「老後に2000万円」というフレーズの蔓延はけっこう大きかったと思う。
 金融庁の言いたかったことはとりあえず置いといて、注目すべきはともあれ「そのフレーズが蔓延した」ということ。実際それが何を意味するかは二の次で、「蔓延」すれば「意識」せざるを得なくなる。なんか、そういうことなんじゃないかなあ。
 たまに寄る浅草の「稲」というカフェバーのフェイスブックで数日前、「みんな2000万足りないから来ないの?」という投稿があった。そんなふうに感じている水商売の人たちは、けっこういるのでしょう。

 雨が降ると、本当にお店は流行らない。そりゃそうだ、雨より晴れのほうが外を歩くのに適しているというのが普通の感覚。雨の日はできるだけ外を歩く時間を短くしたいと考えるのが当たり前。だから寄り道しない。わざわざ外出もしない。お店をやっていると痛いほど実感できる。だからこそ「雨の日サービス」というものがあちこちにあるのだろう。(最近はすかいらーくがやっていて、何度か利用した。)
 夜学バーも「雨の日サービス」みたいなことをしたほうが儲かるのかもしれない。なぜならば雨の日はお客が少なくなりがちだからだ。(そうでない日もあるから面白い。)しかし、しない。したくない。
 雨の日サービスをしてしまうと、「雨の日は外に出たくないものだ」という偏った(!)価値観をお店が認めてしまうことになる気がするのだ。
 もちろん「雨の日は外に出たくない」という人が今のところ比較的多いから、実際に雨の日はお客が少なくなっているのだろう。しかし「雨の日こそ外に出たい」という人も、必ずいるはずなのである。
「雨の日は外に出たくないという人もいるが、雨の日こそ外に出たいという人もいるものだ」という価値観を当たり前にすることが、夜学バーのめざす「バランス感覚」というもの。だから、今のところは「雨の日は外に出たくない」お客が多いような気がするけれども、「雨の日こそ外に出たい」というお客も、同じくらい増えてくれればいいと願っている。そのほうがバランスいい。

「おお、雨だ。夜学バーに行こう」と思うような人が、いたら楽しい。台風だろうが大雪だろうが、このジャッキーさんとかいう人は「だれか来てくれるかもしれない」という強迫観念で店を開ける。ほかの人の担当日だったら、その人を休ませて自分が店に向かったりする。
「避難所のような役割を果たせるかもしれない」という思いもないではないし、大義名分としてはそれがあるのでここにも書きやすいのだが、本音を言えば「だって、こんな日にお店にいたら楽しいじゃん」である。
 もちろん自分も、本当に危ないような日は無理はしないし、無理して来てほしいともまったく思わない。でも、「あー電車が止まって帰れなくなっちゃった。でもちょっとがんばれば夜学バーに行けるな。風も落ち着いてきたし行ってみるか」くらいに思う人がいたら、けっこううれしいし、きっと楽しい。
 雨の日の夜にお店にいると、なんだかちょっと楽しい。その感覚が「わかる」ような人は、ひょっとしたら雨の日にこそ、夜学バーに来てくれるかもしれない。「雨の日サービス」をやってしまったら、その楽しさはたぶん半減する。いや、ほとんどなくなってしまうんじゃないかな。
 現実がどういうもんかというと、台風の日に這うようにしてお店に行って、17時から25時まで8時間いて、一人もお客が来なかった、という日が去年あった。そりゃそうだ、危険なんだから来ないほうがいい。来てくれとは思わない。だけどたまたま近くを通りがかったり、屋根を求めてさまよっているうちにたどり着いた人がいたりしたら、その時の気持ちって、どんなもんかな。だからそういう日こそ店を開けたい。もちろん無理して大怪我するようなことはないように、細心の注意は払いつつ。

 で、そういうことは「老後に2000万円、というフレーズが蔓延している現在」ということに置き換えても、似たようなもの。それを重要視する人もいれば、しない人もいる。だから行かないという人もいれば、だから行くという人もいる。
 雨だって台風だって、なんだって同じなのだ。
 関係があることには関係があって、関係がないことには関係がない。
(この話は非常に重大なので、いつか自分のホームページでわかりやすくまとめたい。)

 余計な話が長くなってしまった。
「21時に帰るつもりが23時になった」とか、「帰りたくないけど帰ります!」とか、夜学バーという場所についてたまに、「ずっと居てしまう」という方面のことを言っていただくことがある。幸せなことだ。「来る」も大事だけど、「居る」も大事なのである。「雨の日サービス」は「来る」のほうに重点を置きすぎなのかもしれない。「居る」に重点を置くと、あんまり天気は関係ない。雨音は聞こえてくるけど。

2019/07/16火 j→あすか
 19時ごろあすか氏と交代、そのあとしばらく客席に座ってのんびりとした。何人かお客がいてよかった。
 カウンターに誰が立っていようが構わずやってくる、「店にお客がついている」状態が理想。だけど実際はけっこう属人的なところもある。つまり、どんな人が立っていてもお客が来てくれるような甘いことはないので、番頭(支配人)としては終始気合を入れ続けていなければならない。人事もそうだし従業員への指導(教育的なこと)もそうだし、かれらとの意思疎通、夜学バーはどうあるべきかというイメージの共有、などなど、そういうことがしっかりとやれてようやく少しずつ「属店的」になっていく。
 と、なんだかまじめっぽい話題。
 基本的に、こういう小さなお店では、人は人に対してお金をはらう。夜学バーは木戸銭1000円(奨学生なら500円)、一杯500円から。となると1000〜1500円くらいはかかる。決して安い値段ではない。(と僕は思う。)その額をお客さんは、「自分」に払ってくれているのである。
 とりわけその場にいるだけで発生する「木戸銭(チャージ)」というものは、「その人が作る場」へのダイレクトな対価として支払われる。ということは、チャージが1000円であるとすれば、「自分が作る場には、1000円の価値があるのだ」という確信、矜持がなければ、本来、だめなのである。
 といって、なかなか確信など持てはしない。むしろ下手に矜恃など持てば、傲慢になりかねない。ひとつ謙虚に、「1000円払う意味のある場をつくるのだ」という意識を持って、一所懸命取り組むくらいが具合いい。で、各従業員がそのように取り組めるための下地、環境を作るのが、僕の役目なのである。
 それこそ、うまくできている自信がない。がんばってはいるつもりだが、まだまだ足りない。その確信はある。
 各従業員の皆々様方に、「1000円払う意味のある場をつくるのだ」という気持ちを持ってもらうことが、まず大変。アルバイトやフリーランスでは、いや正社員であっても、「会社全体の利益」や「お客の消費感覚」にまで意識を巡らすのは容易いことではない。「自然にそういう気持ちになるような環境づくり」を設計していくのが肝要なわけだが、あまりそういうことを考え過ぎればいわゆる「意識高い」と揶揄されるような発想に流れてしまいかねない。それは夜学バーとしてはずいぶんかっこ悪い。
 そういう「気持ち」を持つことが、自分にとってどのような利益があるのか? ということを、ひとまずは考えていただくしかない。で、「とくに利益はない」ということになれば、夜学バーで(薄給で)働く必然性はあんまりないことになる。あるといいなあ、と思います。そういう人たちがたくさんいると、夜学バーはいっそうよい店になるはずなので。時間はかかるでしょう。気長にがんばります。
 なんか、藤子・F・不二雄先生が晩年アシスタントに書き残したメモみたいになってしまった。まだ死にません。
「夜学バーは、ジャッキーさんが立たなくなってからいい店になった、と言われたら嬉しいのですが」というやつ。立たなくなることは、ないつもりだけど、入院とかしたらありうるので。
(皆々様方がこのページを読んでいるかどうかは、しらない。)

2019/07/17水
 ミッションボトルを入れたい、というお客と企画を練るなど。ホッピーがよく出た。静かな日だった。
 早速余談。「わかる」ということは通常、「頭(理屈)でわかる」→「心(実感)でわかる」→「体でわかる(=内面化される、つまり考えるまでもなくわかっている状態になる)」という手順を踏む。
「まず体で覚える」というのは「すべての行程をぶっ飛ばして最終段階をまず叩き込み、そこから逆算させる」という方法である。まず「内面化」させてしまって、それから心(実感)や頭(理屈)をついてこさせる。カルトなどの洗脳過程において「まずは信じることから」と教えられることがある(8教えられたことがあります!)のは、そのほうが早くて確実に「教義」へ導けるから、だと思う。
 これは「結果や目的・目標が先に立つ」ということと似ていて、テキストのページに書いた「遠心的」ということの反対である。夜学バーは遠心的な場をめざすので、もちろんカルト的な手法は取らない。

 従業員に対しても、はじめに書いた「わかる」の標準過程を踏んでもらいたいと思っている。ということは、非常に時間がかかる。「早くて確実」からは程遠い。「わかる」のがいつになるかわからないし、必ずしも僕やお店にとって都合のよいことを「わかる」とは限らない。でも、大切にしたいのは「遠心的」という態度であって、求心的に「こう」とあらかじめ決めて進める態度ではないのだ。
 ようするに、自分の頭であれこれ考えて、試行錯誤しながら「わかっていく」のがいいだろう、と。そういうふうに若手の従業員はがんばっている(と思う)ので、ご支援を。
(ただ放任すればいいってもんでもないので、僕ももうちょっと、工夫していくことにいたします。)


「一切の教義を否定する」というのが(あるとしたら)唯一の教義、と橋本治さんが『ぼくたちの近代史』で言っていたなあ。
 その同じ講演(ないし本)で、橋本さんは「わかりにくいんですねふつうの人は私が」とも言っていた。48年3月生まれで87年11月だから、当時39歳。まだまだ先だ。もうしばらくは、夜学バーもわかりにくい芸風でやっていくか。

2019/07/18木 k→sue

2019/07/19金
 余裕のあるときはのんびり大上段に構えているんだけど、余裕のないときはやっぱりけっこう不安にはなる。お客が来ないと「ウッ」てなる。
「待つ」仕事ってのはたいへんだ。夜学バーってのは流行ってる店ではないので、17時に開店しても20時くらいまで誰もこないときがざらにある。24時過ぎてもお客がなくて、その日はボウズ(釣り用語)ってこともたまにはある。水商売なら「お茶」って言うのかな。よくわからない。自分の担当日なら「あーあ」で済むが、ほかの従業員の日にそんな感じだと力不足を申し訳なく思う。
 こういったことを正直に書くのもどうなんだ、という気もするが、畏友せかいさんの未来食堂が最初期からかかげている「飲食業のオープンソース化」に対してはかなり賛成(だからこないだテキストのページに金勘定のことを書いたのです)なので、それなりに書くようにする。(実はそのうち従業員用マニュアルみたいなもんを作って公開しようとさえ思っている。)

 金曜日は本当にわからない。たしか20時くらいまでお客は1人で、21時くらいまでお客は2人、そのあと増えた。25時くらいまでで合計13人。瞬間最大で7〜8人。このお店としては多いほうだし、金曜日はここ数ヶ月1〜5人くらいの来客数が続いていた。わからんもんです。
 22時以降とくにお客が増えたのでなんだかたくさん人がいたような気がしたけど、もうちょっと時間的にばらけていれば「常時4〜5人くらい」になっていたかもしれない。それだと終始落ち着いた状態だったかな。

 普段はだいたい合計で5人〜10人くらいの来客がある。たまに3〜4人くらいの日があったりする。0〜2人はまれである。11人以上もそんなに多くはない。そして法則性はもちろんない。予測もできない。ギャンブルのようなものである。金曜だからいつも混むわけではないし、日曜や月曜だから必ず空いているということもない。何度か書いているけど。
 経営者としてはスリリング。全然ふるわない日が続けば吐きそうな気分にさえなるし、それなりにお客があれば精神的に健康である。いやほんとに、素直なもので。
 でも基本的には、僕には「待つ」才能があるのだと思う。誰もいないところで数時間ぼんやりしている(実際には本を読んだり作業したり、掃除したりしている)のも、それなりに気持ちいいものである。あんなにじっくりと孤独を噛みしめられる時間は、なかなかない。上質とさえ思う。一対一でじっくり話したり、自分含め3〜4人で濃密な時間をつくるのも、楽しくて仕方がない。そして何より、学びになる。夜学バーでいちばん学んでいるのは他ならぬ僕であろう、というのは間違いないと思う。いちばん長い時間いるのだから、当たり前なのだ。
 しっとりしているところにいきなり何人かの知らない酔っ払いが迷い込んできて、パッとモードを切り替えて対応するのも面白い。こういう時こそ腕(?)のみせどころ。その人たちと、それまでにいた人たちとが絶妙に混ざり合って結果的にとてもよい時間になったりすると、「こういうことなんだ!」と嬉しくなる。

 というわけで、結局はだいたいなんだっていい。お客がたくさん来た日も、何人かだけ来た日も、同様に楽しく、ためになっている。それはたぶん、お客さんたちもおおむね似たようなものだろう。むしろ、いろんな日があったほうが面白いのではないかしら。ただ、お店を維持し、さらによき場にするためにはそれなりの来客が必要なのだというだけ。引き続きみなさま、よろしくおたのみします。

2019/07/20土
 秋葉原で「ジンライブ」というお酒のイベントがあり「ついで需要」が発生、三名お越しに。早い時間からそれなりにお客があった。そして21時台には6名の団体さん(!)が来店。僕が18歳くらいのときに知り合ったお姉さんが、お友達を連れてきてくれたのだった。お会いするのも十数年ぶり。
 ふだんは数名のお客であれこれ話しているのが常態で、人が増えるといっても一人二人ずつぽつぽつと、なので急に5〜6名増えるのは実にイレギュラー。でも、たまにはこういうするどい緩急がつくのも楽しい。腕の見せどころ! とも思う。
 6名はみな女性でオタク。ある方は席につくなりスーパーマリオのゲームブックを目ざとく発見、「ドラクエのゲームブックめちゃくちゃやったわ〜」とおっしゃるので「僕もよくやりました、2とか3とか」と返したら、「わたしは4ですね〜」と。ここで僕は、その方のおすがたやごようす、歴の長そうな感じなどから総合して、「4は衛藤ヒロユキ先生が文章を書いていましたね、四章あたり」と言ってみた。すると「えっ、衛藤先生が!」と複数名の方が反応してくださったので、「よし」と。
 相手方がけっこうなオタクと見え、衛藤先生を知っていそうな世代でもあったから「衛藤ヒロユキ先生」とだけ言ったのだが、もうちょっと不安があれば「『魔法陣グルグル』の衛藤ヒロユキ先生が」と言ったところだし、それさえ怪しければ、ひょっとしたら何も言わなかったかもしれない。逆に、もっと死ぬほどオタクで僕なんかは足元にも及ばないようなお相手であると想定した場合は「四章とか……」とだけ言って「あれはさすがだよね……」と返ってくる、みたいな渋いやりとりもあり得たかもしれない。(妄想的イメトレ)
 このような「つかみ」は(特に団体さんには)けっこう重要だったりする。今回はたまたまオタクトークだったが、ぜんぜん違う話題でも、とにかく「こちらのお店はあなたがたと同じ場を共有するつもりがあります、しかも当たり障りのない美容師みたいな会話ではなく、何かしらお互いに意味や発展、特別な安心感などの得られそうな方向でお話ししたい気持ちがあるのですよ」というサインを、できるだけ早いうちに送っておきたいのである。早い話が、「こちらは人間だし、みなさんも人間です」という確認をしておいたほうがあとで楽なのだ。今回はものすごく早い段階で「ゲームブックに注目する」という形でパスをいただけたので、やりやすかった。
 6人ぶんのドリンク(たしかドラえもん、ドラミちゃん、ネーポン、ネーポンサワー、ネーポンサワー、メロン牧場)を一気に作り、ほぼ同時に提供する、というのはけっこう大変で、頭を使う。その間の場の様子にも注意していなければならない。6人一気に増えると、それまでいたお客さんが逆に気を遣ってくださったりするので、「この状況をぜひ一緒に楽しんでください」というサインを、これまた送らねばならない。団体客をいやがってほしくはないし、互いに遠慮してほしくもない。楽しんでいただきたい。こういうこともあるのがバーみたいなもんなのだ、と。
 こちらの方々は、一人がもともとの友人だったこともあって、みなさま落ち着いたすてきなオタクだった。お帰りになったあと、「いやー面白かった」「楽しかった」とみんな口々に言っていたので、これまた「よし」。
 みなさまにおかれましても、「○人もいるから夜学バーはちょっとまずいかな」と思わずに、とりあえずきてみたら、たぶんどうにかしますので、面白半分に訪ねてみてください。
 この日はむかし(ジャッキーさん教員時代の一期生)の教え子が大学時代の友達を連れてきてくれたり、いろんな人がきていて、23時くらいにもお客が増えたり、けっこう動きのある日だった。その都度、調整。それが楽しい。

2019/07/21日
 浅羽先生の会が終わったあとは、お客がゼロ。そんな日もある。わかっているのだ、「イベントのあとは、行きづらい」と。僕だってそうだ。だからあんまり特別な会は好きでないのだが、夜学バーを知ってもらう機会としてはかなり有用なので、やらないのももったいない。バランスはいまだ、思案中。

2019/07/22月 庚申
 庚申の日、朝まで営業。閑古鳥。20時くらいにようやくお客があり、ゆったり話す。22時くらいに、一人増える。日付が変わって、またお客が一人になる。深夜1時を過ぎてから、お客が一人また一人と増えていき、瞬間最大風速は6名。とくひつしたいのは東上野に最近できたバーから二人(うち一人は店主)、最近湯島にできたバー(深夜0時に開くパリピ寄りの店)から二人(共同経営らしくどちらも店主)。やはり深夜営業はそういう動き方なのだなあ。
 近所のバーの二人は前にも来てくれたことがあり、まだ20歳とか21歳とかなのに、しっかりしていて、賢く、夜学バーにずいぶんはまってくれたようだ。初めてのときは1時過ぎにきて、たまたまほかにもお客が3名ほど残っていたので、そのまま3時くらいまで営業した。今回は庚申と知らずになんとなく来たらしい。そのほかに「来てみたけどやってなかった」という経験はないそうで、つまり、二度きて二度とも「本来は営業していない時間帯に営業していた」のであった。本人たちも「すごい、2分の2だ」と喜んでいた。呼び出しがあって店を開けるために帰ってしまったが、もうちょっとゆっくり話したかったな。
 朝までのお客としばらく話す。青春の匂い。

2019/07/23火 あすか

2019/07/24水
 静水(来客が多くなくトラブルもなく静かな水曜日であったことの略表記、しずすい)、昼から引き続きいてくださったお客さんとしばらく二人で話す。乗り物(鉄道、フェリーなど)や土地の話など。知らないきっぷのことなど知ることもできて個人的にもじつに有意義だった。
 乗り物のことに関しては僕の何倍も彼は詳しく経験も豊富だけど、僕もそれなりに好きな分野(あまり興味のない人に比べたらかなり知っているほうだと思う)である。

 感覚的な話で、便宜上数値を使うにすぎないけど、相手の知っていることの1〜3割くらいがわかっていれば、「それってなんですか?」「どういう意味ですか?」と適度にたずねることができ、お互いストレスなく会話が成り立つような気がしている。
(いやほんとに数値は喩えで、なんとなくの話。実際のところ1割も知らない場合が多いと思う。その分野における根本的なことがある程度わかっていれば、とも言い換えられるかも。相手次第では、そこさえおさえておけば説明を調整してくれたりもする。)
 ゆえに「1割くらいは知っている」分野をたくさん作っておくと便利ではある。だけどほんとうにオールマイティになんでも、ということは実際むずかしいので、「1%もわからない」ようなお手上げ案件だって無数に出てくる。むりに踏み込む必要はないし、「まったくわからないので、初歩の初歩から教えてください」というアプローチをしてもいいし、あるいは、一所懸命その場で理解して、「つまりこういう話でしょうか」と引かずに受けてみるのもいい。(最後のはほんとに、ちからがとわれる。)

 そのかたがお帰りになったあと、お客がおふたり。おひとりはたびたびおみかけするかた、もうおひとりははじめてのかた。
 はじめていらっしゃったかたと二人で話す時間がとくに長かった。もっと人がいるときでも楽しんでいただけそうなのでまたぜひお会いしたい。「居心地がいい」という意味のお言葉も頂戴した。さて、居心地。この言葉について考えるとまたきりがない。


「居心地がいい」とは本当によく言っていただけるのである。それがどこから来るのかといえば、一言ではたぶんとても言い表せないけど、たぶん「空間づくり」と「店員の様子」に集約される。

「空間づくり」というのは内装(置いてあるモノや貼ってある紙などもすべて含む)とか聞こえている音とか匂いとか口にするものの質とか、ふれるものの手ざわりや椅子の座り心地(これはさらによくしたい)とか、五感に働きかけるあらゆるものの総合。
 温かみ(藤子・F・不二雄先生の言葉でいえば「体温」)と清潔感が同居するような内装につとめ、うるさくならないようにつとめ、みょうなにおいがしないようにつとめ、できるだけおいしく感じるようなふうにものを出すようにつとめ、身体が触れうるものには不快感がまとわりつかないようにつとめる。椅子は、背もたれがあってやわらかいので、バーとしては心地が良いほうだと思う。一部ちょっと調子の悪い椅子があるのが申し訳ない(いちばんまずいのは普段使っていない)けど、これはじつは不動産屋の管轄で何度言っても直してくれないから少し困っております。
 そういうことはすべて、もちろん完璧にできているわけではないものの、努力目標として常に心がけてはいる。その不完全、未完成な感じも実は、「居心地」の要素の一つなのかもしれない、とも思う。(もうちょっと整頓はしたいけど。)

 このようなことがベースとしてあって、あとは「店員の様子」にかかってくる。ここにはお店の「システム」も含まれてくる。お客のグラスが空になったら「つぎ、なにかおつくりしましょうか?」などと言うか、言わないか、というのもそう。僕はたぶん一度も言ったことがない。言ったとしたら「塩対応」として。
「なにかおつくりしましょうか?」はバーテンダーの気遣いと解釈されることもあるため、いちがいに悪いと言うつもりもないが、夜学バーがつくっている下地(五感にうったえかける部分)やコンセプト(思想)とはマッチしない。「注文しやすい環境をつくる」ということさえできればよい。
 僕個人の信念の中心的な部分に、「自由」がある。注文するのもしないのも自由である。「なにかおつくりしましょうか?」は、なにか注文するか、せずに帰るかの二択を突きつけるのと同じである。少なくとも、そう思ってしまうような人たちが、夜学バーの想定するお客さん像のうちにいる。いみなくプレッシャーを与えたくはない。プレッシャーはダイレクトに居心地につながる。
 最近、僕の立っている日は水差しとグラスをカウンターに置いて、セルフで注いでもらっている。このようなシステムを採用しているバーはたぶんほとんどない。しかし「バーでお水を頼んでいいのだろうか?」とか、「お水くださいって言いづらいな」とか「どのタイミングで言えばいいんだろう」とか、考えてしまうような人はかなり多い。そこにエネルギーを使っていただかなくても別にいいな、と思ったので、自由にお水を注げるシステムを試してみている。
 原則はこのようなことである。自由をおもんじ、むだなプレッシャーを与えない。そうでない場合があるとしたら、必ず意図的に行わねばならない。素行のよくないお客への塩対応や、場を調整するための一時的な操作として、など。誘導や緊張が必要な局面も時にはある。
 冒頭に書いた「1割くらい知っている」云々のくだりも、「店員の様子」の一環。受け止めることができたり、受け止めようとする態度を示したりすることが、また居心地につながる。

 ここまで書いてきたことは、「こういうふうに考えて店を作っているのです」という話というよりは、「作ってみた店を自分で分析してみている」という感じ。きっちりフィードバックして、さらによいお店にしていきたいものです。

 で、最後にすべてをひっくり返すようなことを書いておくと、「居心地がよい」というのは、必ずしも良いことではない。それは某氏による夜学バーをテーマにした卒論にも、ちょっと書いてあったかも。(お店で読めます。)
「居心地が良い」というのは「安心する」ということであって、それが「気を抜く」になるまではたったの一歩。そこから「甘える」までは、ほんの数歩なのである。
「居心地がよい」というのは、「自分にとって」だけでなく、「みんなにとって」でなければならない。そこを踏まえられないと、気を抜いて過剰に「甘える」が出て、場が壊れてしまう。だからお店は、「居心地」は確保しつつも、「甘える」に続くルートは絶っておかなければならない。そこもまた難しく、きつい時もあるけれども、深みとやりがいのあるところ。

2019/07/25木 k→sue

2019/07/26金
 雨降られ空にフラれ、なんて曲もありましたが、ようやく梅雨が開けそうな気配。それにしても人生にはいろいろある。人生にいろいろありすぎて、めずらしく二時くらいまでお客が数名残っていた。
 本当にいろいろある。家賃滞納してパスタ生活を続けていたが本日半年ぶりに働いて、その取っ払いの給料を手にお店にやってきた古いお客もいた。彼は故郷に戻らざるを得ないだろう。悔しいことや悲しいことを抱えてきた人たちもいた。そういうものたちが場のなかに溶かし込まれ、いっとき「楽しい」「面白い」そして「美しい」瞬間があったりする。小さなお店の機能とは、あるいは意義とは、そういうものかもしれないと思う。
 うちの兄弟全員で読みまくってボッロボロになったドラえもん14巻をいま夜学で小4の少女が目をまんまるにして読みふけっているのを見ると、この上なく幸せな気持ちになる。他人に対して「意見」を発表することなんか、どうでもいい。そんなことより美しいシーンである。そこに愛は宿る。(なんだかきれいめなことを書いてみた。が、ずっと考えている本気のこと。)

2019/07/27土
 昼は『鈴木先生』精読会。事情ってのは重なるようで、思っていたより参加者が少なかった。けっこうさみしくなってしまった。興味あるかた、遠慮せずにお越しください。本当に。『鈴木先生』を読んだことがあるならば、とっても面白い会だと思います。あるいはまずは、読んでみてくださいませ。
 夜、通常営業に切り替わったあと、作者の武富健治先生がいらっしゃった。ほかに、先生の作品を知っているかたも、知らないかたも数名ずついらっしゃった。違和感のない、よき場が保たれていたと思う。『鈴木先生』や『ハニワット』の話ばかりにならない(させない)ところが、武富先生の人格というか、バランス感覚の良さ。ぜんぜん関係のないほうへ話題が偏った時間もちょっとあったけど、それもそれ、今日でしかありえない状況なので、よし。楽しかった。
 武富先生は「一人のお客」として場に存在してくださるから、本当にありがたい。こちらも特別な気を遣わない。遠慮せず、みんなで楽しめる空気ができあがる。なんでも演劇のおかげとするのもなんだが、「その都度の立ち位置の調整」なんかはお芝居をまじめにやると身につくのだなあ。演劇が上手な人は、場での振る舞いも上手、のはず、と思うんだけど、けっこう「あれ?」ということも。「演劇経験」にもいろいろある。武富先生は漫画にも、日常生活にも(たぶん)それを活かしておられて、流石と感じ入ります。
 そこからいったんお客が引いたあと、夜遅くまた増えていく。
 アメリカから帰国している友達(前のお店の時代からきてくれている)がきてくれた。数日後に発つのでお店に来るのは今日で最後という。「いや、じつは今日来る気なかったんですけど、急に花火に呼ばれたので帰り道に。」え、てことは、花火に呼ばれなければそのまま帰国する予定だったの? ここに寄らずに? 彼はひと月日本にいたのに、会ったのはバ〜ミヤンで一回、夜学で一回だけだった。まあ十分といえば十分だけど、「もう一回、おみやげ持って来ます!」と前回、言っていたので。(花火がなかった場合、がんばってぎりぎり直前に来ていたという可能性もゼロではないが、……なさそう。)
 しかし、水くさい、と思うよりは、むしろちょっと嬉しかった。彼にとっては、僕に会うことも、夜学バーに来ることも、ごく日常的なことなんだろう。たぶん、あんまり大げさに捉えてないってことなのだ。ちょっと遠くにいくだけで、どうせそのうちまた会える。そういうところが人柄なんだな。次に帰国したときも一度はきっと会うだろうし、会う会わないで変わる関係でもない。彼は両親から勘当(!)された直後、半年くらい僕の家に居候していたので、なんとなくわかる。彼は彼のペースで、好きなときに好きなように好きな人と会えばいいのだし、それが僕のタイミングと完璧に合えば、バ〜ミヤンにでも行けばいいのだ。
 そう、そのくらいがいいのだ。人がお店に来るタイミングというのは。それも24日の記事で書いた「自由」というやつなのだ。彼がぜんぜん僕に気を遣わずそうしてくれていることに、むしろ感謝を捧げたい。じつのところ幸福である。

2019/07/28日
 早い時間に、はじめてのお客がいらっしゃった。しばらくお話ししていると、少しずつお客がやってくる。ゆるやかにお店が変わっていく。おもしろいと思ってくださっただろうか。
 途中から、これからお店を手伝ってもらうことになるであろう見習いの人にカウンター内へ入ってもらった。あるていど仕事を教えたあと、僕は外に出て、客席に座ってみた。初めは外からあれこれ説明していたが、それもだんだん必要なくなってきたので、一応意識はカウンター内に残しつつ、客としてふるまうことにした。楽しかった。いいみせだ。
 遅い時間に、通りすがりにお店の前に置いてある名刺を見てきたという二人連れが。「ソルティドッグをふたつ」というめずらしい注文が入ったので、僕もカウンター内に復帰して、たまたまあった(いつもはない)グレープフルーツでソルティドッグを作った。そなえよつねに。また買っておこう。
 お客が帰ったあと、いわゆる「閉め作業」について教えて、終電に間に合うよう先に帰し、残った片付けを終えて帰る。
 ぜんぜん疲れていない、ということに気がついた。身体というより、頭が。お店にいた時間はいつもと変わらないのだが、頭を動かしている時間(あるいは質や量?)が違うということだろう。カウンターの中にいると、常におびただしく膨大なことを考えたり意識しているので、ずいぶん疲れるのである。
 どの位置に立つか、どんな表情をするか、手の動きや角度はどうするか、ということさえ常に意識している。ところが、カウンターの外にいて座っているときは、立ち位置を考えなくていいし、顔や手などのこともさして考えず、気を抜いていられる。場のバランスをとる責任感も薄まる。めちゃくちゃ頭が楽なのだ。あんまり楽にしすぎると悪い客になってしまうかもしれないので、もちろん人一倍気にはしているが、それでもカウンターの中にいる時とは全然違う。
 そういう頭の使い方を週に5日も6日もしていると、そういう疲れが蓄積してくる。やっぱり週4くらいがせいぜいだ。残りの3日は家で寝てたり、どこかのお店で気を抜いて座っていたい。そうできるようにがんばろう。

2019/07/29月
 名古屋の魂食スガキヤを今日から提供することにした(とりあえず僕の日のみ)。ネギメンマ温泉卵チャーシューを入れた特製ラーメンを四食つくった。いちおう形にはなっているが、味や演出はもっと凝ることができるはずだ。
 今日はなんだかよくしゃべった気がする。お客がわりに少なかったのと、「話すことによってなにかを検証していく」ということの好きな人たちがいたせいか。でもそれだけではなく、なぜかがらにもない(?)古い話なんかもしてしまった。そんな日もある。いろんな日がある。

2019/07/30火
 ひさびさにグランドスラム。グランドスラムというのは、「お客が(自分たち以外に)一人もいない」ことをあらわす一部地域限定スラングである。ファミレスなどでも、自分の席以外のお客がみんないなくなったら「グランドスラムだ!」と(心で)叫ぶ。十数年前から、ある友達との間でだけ通用している言葉。
 トイレの床を拭き、掃除機とコロコロをかけ、カウンター内を整理し、この日報を二日分ほど書き、本を200ページばかり読み、経費計算をし、それでもまだまだやることがある。店を維持する、というのは果てしない。
 お客がなければさみしいが、いまさら焦っても仕方ないことなので、せいぜい時間を有効に、楽しく過ごす。で、つねづね心のどこかで、「もうちょっとだけ流行るにはどうするか」を練る。最近だと「コミティアの評論島で本を売る」はけっこう効果があったので、そういうふうなちょっと変わった広報を進めていきたい。(その時に売った非常に非常に薄い本は、まだ在庫がお店に少しだけあります。)

2019/07/31水
 そこそこに賑わう水曜日。昼から引き続きいてくださった方、ついに一人でやってきて一人で帰れるようになった中学生、「来るたびに〇〇な話題が」と感心して(?)くださった二度めのお客。二度め。二度め。二度めはとにかくうれしい。そのほかいろいろなお客がいらっしゃった。感謝です。
 夜遅く、わかものがクリームソーダの写真を撮りにきた。いんすたばえ的な話ではなく、ぽすたーばえ的な話らしい。ライブの告知画像につかいたいのだそうだ。二杯つくりパシャリ。二杯ともぺろりとめしあがっていらっしゃった。

2019/08/01木 k→sue

2019/08/02金
 ただ「そこで起こること」ができるだけ有意義で美しくなるように、工夫して生きていきたいものです。

2019/08/03土 sue

2019/08/04日 soudai

2019/08/05月 小津

2019/08/06火 あすか

2019/08/07水 小津

2019/08/08木 sue

2019/08/09金
 僕が立つのは一週間ぶり。はじめてのかたがおふたり。うまくできただろうか。いつも自問自答する。反省会、感想戦、そういったことを一人でする。もう一度きていただけたらとても嬉しい。そのあとのことは、またそのときに。

2019/08/10土
 ゆったりとした営業。そのぶんまとまった良い話ができたように思う。体力があればいっぱい書きたいのだが、なんとも余裕がなくて。と書いてしまうと、それもなんだからもうちょっと書いてみようか、という気も起きてくる。書いてみるのは重要だ。
 このお店を、ぜひともうまく活用してくださいませ。利用してください。使いがいのあるお店だと思います。夜学バーは「飲み物を飲みにくる」ためだけの場所ではないし、「居場所にする」ための場所では絶対にないし、単純に「人と話す」ためだけの場所でもないです。では、なんのための場所なのかというと、やっぱり「学ぶ」ということになると思います。
 人と話したり、複数の人のいる場に身を置いてみる、ということ自体が「学び」たりうる、というのはたぶん真実で、だからどんなバーやスナックに行っても学べることは学べます。僕自身が二十歳からずっと、いろんなお店で様々なことをたくさんたくさん学んできました。夜学バーは、「最初からそういう前提で身構えているようなお店を作ったらどうなるのだろう」という思いつきから始まっています。で、今のところそれはかなりうまくいっていると思います。よろしければ、面白がってみてください。

2019/08/11日
 昨日よりさらにゆったり。多くのお客さんがきて「場」の移り変わりを感じたりみんなで調整したりしていくのも楽しいけど、このように落ち着いているのもいい。
 夜学バーに来るようなお客さんは(いや、バーに来るような、と言ってもいいのか?)お店がすいているほうがうれしがる傾向にある、と思う。もちろんずっとほかに誰もいないと面白みはないが、あんまりワイワイしているよりも数名でゆったりやっていたほうが落ち着くし、店主と一対一で話すのも悪くない、と思っている人が多い気がする。たんに実感として。
 僕の理想は「いろんな場面がある」こと。時には一対一で、時には数名で、時にはカウンターが埋まるくらい(といっても8席程度)の人数で、ごくごく稀には立ち飲みが出るくらい(年に数度あるかないか)でと、お店は千変万化する。それぞれのお客さんが、どの状況も体験してくださったら、お店という「場」の面白みが、より深くわかっていただけるのではないか、と思う。そういう面白みを「売り」にしていきたいものだ。
 それぞれの状況によって、自分の立ち居振る舞いを変えていく。もちろん人数によって変えるというよりは、「場」によって変える。そして自分の動きや意識の持ちようによって、「場」は少しずつ変わっていく。あるいは維持されていく。自分は「場」の一員であって、おそろしく大きな影響力を、ささやかに持つ。それこそが、こういう小さなお店の醍醐味。夜学バーは、その部分に焦点を当てて、自覚的にやっていこうというお店である。今日も楽しかった。

2019/08/12月 soudai
 新人soudai氏の二度目のとうばん(二つの意味で)。なかなかよくやってくれています。
 彼はあたまがよいので、仕事それ自体も上手にこなすが、それ以上にすごいのが、お客をどしどしと呼んでくれているところである。人望、人徳、そういうものでもあるだろうが、たぶん大きいのは、「彼がやるのなら、なんだか面白そうだな」と思わせるところだろう。魅力がある、ということである。僕もけっこう面白がられやすい人間なので、そんなふうに感じる。
 あとは、「面白そうだ」が「面白かった」になって、「また行ってみよう」となることと、そのうえで、夜学バーを夜学バーとして成立させることである。「場」の全体を美しくデザインする、ということ。その「美しさ」を新たな魅力として、より魅力的な存在となることである。敬具

2019/08/13火
 ゆったりとしかしぐるぐると人が入れ替わり、総人数のわりには常時1〜4名くらいのちょうどいい営業。リズムはあったが「うねり」(ダイナミックな感じ)はあんまりなかったかもしれない。もちろん、べつにそんなのはあってもなくてもよい。
 バランスはよかったなあ。一対一でゆったり話せた相手もいたし、旧友もきた、初めての方もきた、教え子が人連れてきた、旅行者も仕事終わりの方もいた、売り上げは中の中。豊かさのある安定。中流でも、このくらい複雑だったら退屈しない。

2019/08/14水
 今日も静かであった。愛知県瀬戸市から、僕の高校の同級生がやってきた。(同級生だからかプライバシー意識低め。)
 1年7ヶ月ぶり。前に会ったのもこのお店だった。17歳の時に仲良くなって、当時からちょっと危ない人間だっが、それから10年以上、彼の生活と精神は不安定な状態が続いていた。会うたびに変化があった。すこぶる悪い時期もあった。しかし巨視的に見れば緩やかながら良くなっているような気がしていたので、たまに連絡をとって会っていた。あるいは彼のほうが、僕のお店にやってきてくれた。
 同級生なのに上から目線な書き方になってしまう。彼がある面において「どうしようもない」ことは互いにわかっていて、それでどこか、そういう態度になってしまう。これは同級生だからこそ、だと思う。対等だからこそ、「お前はだめだな」「うん、おれはだめだ」が成立する、という関係もある。
 ただし僕は、彼に対して無条件以上の敬意を払う理由も持っている。高校の頃の彼のキテレツさ(書いていたものを含む)には自分にないものを感じていたし、今回のお店での振る舞いは、「もうこいつをばかにはできないな」と思わせるものだった。
 これまでにはない落ち着きと、理路整然とした話し方、相手の顔色や反応をみて自分を調整する意思、そしてアルコールに持っていかれない理性。「場」の共有、ということを精一杯しようという意識があった。(こういう分析じみたのもなんだか上から目線みたいだが、このあたりは僕の専門なので許してもらおう。)
 彼に初めて会ったお客さんも、「面倒くさい」とか「不快だ」とは思わなかったらしい。むしろ快い存在だと捉えていた部分もあったように見えた。
 人生の半分くらいの付き合いがあるから、彼がどんな状態から、どんな状態を経て、今の状態になったかをだいたい僕は知っている。人は変わるのだ。たぶん「よい人」とは、よくなっていく可能性を秘めた人のこと。夜学バーには、そういう意味での「よい人」がたくさん通ってくださると嬉しい。「今のあなた」がどんな状態であろうと、「よくなっていく可能性を秘めたあなた」であるならば、そのヒントや実践を少しでも、このお店に存在させられるようにつとめたい。

2019/08/15木 k→sue

 金曜のお昼。早めにきて冷蔵庫を分解清掃するなど。こういうことをこまごまと、粛々とやっていくのが「お店をやる」ということで、「家庭を運営する」ということとたぶん似ている。お母さんがいつのまにかトイレットペーパーを買っているように、僕らもいつのまにかなにかをしている。あんまり目には見えないけれども、たしかに存在している仕事。想像力を働かせてみると、世の中には「影にある仕事」の多いこと! そういったものに気づくことが、きっと優しさのもとになる。これも夜学の学のうち。

2019/08/16金
 お盆期間が過ぎて落ち着いたということなのか、お休みの合間の金曜だからか、それなりの人出。とはいっても合計で11名ほど。瞬間最大風速でも7名くらいじゃないか。だいたい3〜5人くらいいつもいた感じ。ちょうどよい。(これより混むことはこのお店、少なくとも僕の日はあんまりない。)
 11名くるとやはりバラエティに富んだ面々で、ツイッターで知って初めてきたという高校生も何時間かいてくれた(むろんお酒は飲まず、問題とされない時刻に退店しております、念のため)し、わりと心地よい場になっていた、はず。最近出しているスガキヤラーメンも二食でた。うれしい。
 ただお酒が入ってくるとやはり人は「ブレーキがかかりにくくなる」もので、ほっておくと牛の涎のように(参考文献:二葉亭四迷『平凡』)話し続けてしまうことがある。僕なりの表現をすれば「場から離れてしまう」状態になる。それをいかに「場に戻してくる」か、というのは、やっぱりカウンターの中に立つ人がその役割の中心を担う(つまり、その周縁はお客さんに担ってもらう)のだが、スマートにやるのは容易くない。未だ研究中。

2019/08/17土
 昼は『鈴木先生』という漫画の精読会。はじめての方がいらっしゃって嬉しかったが、参加者は多くないので、すこしでも興味ある方は積極的にご参加を……。本当に。
 高校の同級生や教員時代の教え子や同業者(?)がきたり、中学生がレモンスカッシュ飲んで水鉄砲大会に行ってからまた戻ってきたり、二十代男性がふたり(+僕)深夜にあつく語り合ったり、充実した営業だったが、なんだかんだで12時間以上お店にいた。くたびれる。しかしためになる。いろいろと。
 ところで、僕がお店に立っていない日の営業の様子を僕は知らない(報告する制度などもない)けど、いろんな方面から「○○さんの日にこういうことがあって」という話は入ってきてしまう。伝聞なのであまり重くは受け止めないが、いちおう参考にはする。
 ある程度の意思疎通はしてあるものの、やはり僕とは別の人が立っているわけなので、いつも僕が書いたり言ったりしているような夜学バーの基盤からは離れてしまっているような瞬間は当然あるだろう。忙しいとついつい、自分の担当でない日は家で静養したり用事をこなしたりしてしまいがちだが、折にふれて自分もちょっとは顔を出さないとチューニングが狂ってしまいかねない。しかしあんまりそれをやり過ぎても「校長が教室のうしろで授業の様子を見ている」みたいな余計な緊張感や座りの悪さも生まれるかもしれない。
 でもまあ、そうやって心配や遠慮をすればするほど「店主」という立場が強化されてしまうので、気軽に「ヨッ」と行ってほかのお客と同じような雰囲気でいられるような感じがいちばん僕も楽しい。あんまり特殊でいたくはない。

2019/08/18日
 昼は浅羽先生の会。毎回だいたい18時くらいに通常営業開始。どっと人がいなくなり、0〜3名くらい残る。
 催しのあとの営業は、たいていお客が少ない。気持ちはとてもよくわかる。いつもと違う、どんな空気だかわかんない、アウェ〜イかもしれない、という予感がするのだろう。来るにしても遠慮しているのか、遅い時間に集まる傾向がある。
 夜学バーの営業のなかでも、この浅羽先生の会はいちばんお客さんの感じが違うと思う。物好きな人は18時くらいに来てみると、どんな雰囲気かを味わえるはず。そうでない人は20時(さらに慎重な人は21時)以降に来れば、だいたいいつもの夜学バーと同じような状態だと思うのでどうぞ。
 ちなみに水曜の「昼」や、木曜の夜もちょっと雰囲気が違う。そういう特異点みたいなものが多少あるとよいだろう、と思ってはいるものの、あまり「夜学バー」から離れないようにしたい。(このへんはけっこう、お客のほうにかかっているところもあります。)
 さて、この夜は、昼から引き続きいてくださった方ひとりと、夜からのかた数名とで、ゆったりと過ごした。日曜の夜はそもそも混みにくい。できるだけ少人数で、と思うかたは、どうぞ。(楽しいことに、そういうねらいで来た人がたくさんの日も、もしかしたらあるかも。)

2019/08/19月 soudai
 一時間ほど様子を見に来た。「緊張感と安心感」がバランスよくあると、いい。長くやっていると「安心感」のほうに偏りがちで、緊張を回避しようとしてしまう。これはお店に立つ側だけでなく、お客のほうの問題でもある。
「安心感を優先して、緊張感を回避する」傾向が強いお店は、必ずや「排他的」になるので、かならずそのバランスは保っておかなければ。

2019/08/20火
 楽しかった。専門用語(?)で言うと「展開が多かった」日。平日ながら17時台からお客があって、そこから徐々に増えたり、減ったり、また増えたりの繰り返し。ずっと緩やかに流動していた。小さなお店の醍醐味が凝縮されたような夜だった。それをすべて見ていられるのは(基本的には)店員だけなので、役得といえる。
 特筆、以前いらっしゃったおふたりが再び。HPやツイッターを見て、という経緯ではなかった気がするので、「たまたま入ってみたらよかったのでまた来た」という感じなのだろう。実にうれしい。前回、二葉亭四迷の『平凡』を手にとってしばらく読んでいらっしゃったが、今回もちょっと読んでいた。

2019/08/21水 あすか
 用事をすませ、22時ごろ到着。10代の時からきてくれているお客が20歳をこえ、「初めてアルコールを摂取する」ためにやってきていた。
 とはいえ、「20歳になりたて」ではない。なんならもういくつ寝ると21歳、というタイミング。なぜというに、彼女は「はじめてのお酒は親友と飲む」と決めていたそうなのである。親友は遠く離れたふるさとに住んでいて、自分は東京。お互いの予定をすり合わせたところ、8月21日と相成った、というわけ。
 うれしいことに、「はじめてのお酒は夜学バーで」「ジャッキーさんにつくってもらいたい」とのことだったので、喜び勇んでダッシュでやってきたのだった。
 それにしても恐ろしいプレッシャー。ふたりの若者の、アルコールライフに影響を及ぼしかねない、いや、少なからぬ影響は何かしら必ず与えてしまうような大役。それも「親友同士の約束を果たす」という場面で。ふたりの一生の想い出に、おそらく残る。
 僕はあれこれ考えたすえ、「雪国」というカクテルを出すことにした。いや、べつにそんなにかっこつけているわけではない。そもそもまともに作れるカクテルはそんなに多くないのだ。彼女たちが雪国の出身だから、という単純な連想もある。
「雪国」は、山形県酒田市で「ケルン」という喫茶店を営む井山計一さんという方が、1958年(よりは確実に以前)につくったもの。スタンダード・カクテルになっているので、今や世界中で飲める(はず)。彼は93歳にして未だ現役でお店に立っていて、僕も4月に飲みに行った。美味しかったし、名店だった。必ずまた行きたい、と思っている。
 僕は井山さんの作る「雪国」を可能な限り研究し、材料の銘柄をすべて同じものでそろえ、上白糖(カップ印!)をミキサーで砕くのも再現し、スノースタイルのつくりかた、シェイカーの振り方まで真似している。味は及ぶべくもないが、気持ちだけは入れられているはず。
 20歳の彼女からは、「飲みやすく」「甘すぎず」「お酒の匂いがする」「ノンアルコールカクテルとは違った雰囲気のもの」といったリクエストをいただいていた。「雪国」はショートカクテルとしては比較的飲みやすい部類だと思うし、甘すぎはせず、お酒っぽさもある。個人的にはちょっと日本酒っぽい味だと思うので、洋酒と和酒の中間という感じで適役だろう。シェイカーを振ってつくるお酒なのもよいし、同じシェイカーからまったく同じお酒がそれぞれに注がれる、というのも光景がいい。
 ただ問題は度数で、工夫して作っても20度くらいにはなってしまう。日本酒やワインよりちょっと強い。はじめての相手にはどうなんだ、という気もしたが、試金石と考えれば面白そうだ。これを最初から「おいしい!」と思ったらたいていのお酒はもう飲めてしまうんだろうし、「わっ、きつい!」と思ったら軽めのものから試していくべきだとわかる。季節のフルーツとか使ってニコニコおいしい弱めのカクテルを作ることも(がんばれば)できなくはないはずだが、そういうのは僕や夜学バーの仕事ではないだろう、と開き直ったのだった。(念のため注:彼女と僕はなかよしのつもりです。)
 たらふく水を用意して、「ちょっとずつ飲むように」「水と交互に飲むように」と伝えてから、シェイカーシャカシャカ振って、飲んでもらった。
 結果は、「わっ、きつい!」のほうだった。特に親友さんのほうは、1センチくらいしか召しあがらなかった。依頼主のほうは二時間くらいかけてようやく飲み干していた。しかし二人ともスイートワインを炭酸で割った「赤玉パンチ」(あすかさんが見かねて?つくってくれた)はおいしそうに飲んでいたので、下戸というわけでもないはずだった。客観的正解はどう考えても「赤玉パンチ」のほうで、僕は一面、完全敗北を喫したと言っていい。
 一面では敗北だが、例えば最初から赤玉パンチ(的なもの)を出していた場合、「おいしいねー」「たのしいねー」で終始していた可能性がある。……いや、もちろんそれでもいいというか、そのほうがいいのかもしれないんだけど、いまいち味気ないというか、夜学バー的には「未来」を重んじたい。
 おそらく彼女たちは、今後それなりにお酒を楽しみ、折に触れて「雪国」も飲むだろう。きっと今日よりも「おいしい」とか「飲みやすい」とか思いながら。あるいは「やっぱりきっついな」と思ったりしながら。今日のことを思い出したり、雪国たる故郷の情景を浮かべたりして。いつかウィスキーでも日本酒でも飲めるようになったとき、「ああ、なんだこんなもんだったんだ」と感じたりもするかもしれない。いや、「やっぱりだめだな、なぜかこれだけは」かもしれない。いずれにしても、このお酒が分かちがたく「想い出」と結びついてしまったことは疑いがない。そういう意味では、僕の選択も一つの正解ではあったはずだ、と、まあ、そう思っていないとつらいのでそう思う。
 お酒というのは、必ず想い出がつきまとう。僕はお店にあるほとんどすべてのお酒に対して、あるいはカクテルに対して、「どこで飲んだか」とか「誰が好きだったか」といった記憶を持っている。「雪国」を作るとき、かならず井山さんの顔が浮かぶのもそうである。ジェイムソンというウィスキーは、地元にかつてあったアマチュアというバーのマスターがいつも飲んでいたな、とか。そういうのの強烈なバージョンを、はじめて飲むお酒には付加してあげたかった。
 ちなみに僕がはじめて飲んだお酒は「鬼ころしのポカリスエット割り」なのだが、その時の情景や感覚は、今でも鮮明に思い出すことができる。死ぬまで話のタネにできる、最高の経験だった。
 僕は井山さんの「雪国」のレシピを、たぶん永劫守り続ける。今より味がよくなることはあっても、基本的な材料や製法は(井山さんが変えない限り)変わらない。だから、いつ僕のところに来ても、ほとんど同じ「雪国」を飲むことができる。できるだけ長くその環境を維持し続けることが、この件の責任の取り方としてはふさわしいと思う。がんばりますね。

2019/08/22木 k→sue

2019/08/23金
 はじめに一人。やがて二人めが来店し、三人の時間がしばらくあった。一人めは店にも僕にもけっこう慣れた人で、二人めの人は初めてのお客。とくにプロフィールやお店を知ったきっかけを聞くこともなく、ふんわりと会話していた。
 二人めのかたはそれほど言葉を多く出さず、一人めの人と僕があれこれ話すのを聞いていた。三人が正三角形になるような位置に主に僕は立ち、時々は二人めのかたにちょっと話しかけてみたり、目を見たりした。とくに少々以上のことは話されず、お帰りになった。
 自分の振る舞いが果たしてよかったのか、よい場になっていたか、反省してみる。あのお客さんは、1500円というお金を払ったことについて、妥当と思ってくださっただろうか。それだけのなにかがあの時間、この夜学バーにあっただろうか。
 そんなことはもちろん僕が決められることではないが、こういうことを折にふれきちんと考えないと、「楽しんでもらえるのが当たり前」になってしまう。その気持ちは容易に「楽しめない人はおかしい」とか「楽しめない人は来なくていい」に変わる。そういうふうに「人のせい」にするような発想は好きじゃないし、たぶんよくない。
 もう少し、よい振る舞いかたがあったかもしれない。こうして文章にすることによっても、不快感を与えてしまっているかもしれない。答え合わせも検証もできないが、しばらくはせめてこの「かもしれない」を十字架として背負っておこう。
 夜学バーはきっと万人向けの店ではないが、「来た人はみんな満足して帰る」は理想としたい。そのためには「満足してくれるような人が来るようにデザイン(あるいは設計)する」ことも大切だし、「満足してくれる人の範囲を広げる」ことも重要である。もちろん、広げたぶんだけ浅くなったり薄くなっては意味がないので、深さや厚みはより増すようなやりかたで。
 そのあと。三人め、四人め……と人が増えたり減ったりし、ひとりのお客が中心になって話が展開するような場面もあった。とっても面白く、僕からすれば学びに満ち、話し方も上手なのでおそらく良い時間であったはずだが、もしもうちょっと長かったらバランスを欠いてしまったかもしれない。そういうバランスまで考えられる人だったのでよかったが、そうでなかった場合、ちょっとは調節が必要だったはず。
 など、そういうふうに一瞬一瞬、ずっと常に「バランス」とか「調整」みたいなことを考えて店に立っている。あまりここには書かないが、本当にいつもそういうことを考えているのである。もちろん時にはその意識が薄まったり、いったん棚に置いてしまったりもするが、基本的には。だからたぶん、閉店ごろにはけっこう頭が疲れている。これがかしこさを育んでくれるのだから、まったく心地よい疲れである。(書いといてなんですが、この件についてはほんとにまったく気を遣わないでくださいね。)
 もちろん、常に考えているからといって常にうまくいっているわけではない。常に考えながら、常に反省している。そういうふうにしていないと、堕落はすぐなのだ。だってべつに、ほとんど何も考えていなくたってお店の営業は成立する。でも夜学バーとしては、常に考えていないと成立しない。夜学バーが夜学バーであるのは、店の中にいる人が常にずっと「そういったこと」を考えているからなのだ。逆にいえば、そうでない場合は「夜学バーらしくない」ふうになってしまう。で、「夜学バーらしくする」のは、けっこう大変なのだ……。(弱音であり、叱咤激励。)
 ちょうど一月ほど前に初めてきて、「もしスガキヤ(名古屋のソウルフード)がメニューにあったら、絶対食べます!」と言ってくださったお客が、ふたたび。二度めほど嬉しい「度め」はない。
 スガキヤは本当にメニューにしてしまっていた。で、食べてくださった。これも嬉しい。こういうことがやりがいであって、たぶん生きがい。

2019/08/24土
 お客の少ないあいだ、「活性炭が浄水や消臭の役を果たすのはなぜか」ということを教えてもらっていた。薬学を学んでいるという、はじめてのお客さん。小さなホワイトボードを使って、丁寧に解説してもらった。ほかのお客さんも楽しんでいた、と思う。疎水性相互作用、よし覚えている。たぶんもう説明ができるので、100年前から知っていたかのように人に話そう。
 こういうふうに、具体的な学問内容(今回の場合は化学とか物理とか)の解説が始まるのは、夜学バーではたまに起きる。逆にいえば、たまにしか起きない。たまにはそういうことになる、という「幅」が僕はとても好きだ。「学ぶ」というのは学校で勉強するようなことばかりではないが、学校で勉強するようなことだって本当に立派な「学び」なのである。ああいう時間は、個人的にも至福です。
 遅い時間に、ほんのわずかな時間しかいられないのにやってきてくださったお客が二名。うれしいことだ。でも「来てもらえて当たり前」と思うのもよくない。30分しかいられない人にも、「来てよかった」と思ってもらえたほうがいい。ただ、その人がどのくらいで帰っていくかは、こちらにはわからない。だから本当は一瞬一瞬が素晴らしいような時間空間を作らなければならないが、それが一瞬で作れるようなものであるわけがない。なんてことない時間がずっと続いて、だからこそ輝く一瞬があったりもする。リズムとかタイミングってのは、どうしてもある。「ある」どころかきっと最重要で、だから楽しいのだ、ということだけは、どうにかいつも表現していたい。

2019/08/25日 あすか

2019/08/26月 soudai

2019/08/27火
 日月は想像を絶する閑古鳥だった模様。この火曜も閑古鳥。それでも数名のお客に恵まれてゆったりと話せた。おおっ、かーんしゃ。(C)ジョージ秋山

2019/08/28水
 昼の部から引き続きの方としばらく(数時間)ゆっくりお話をした。遅めの時間にじわっと人が増える。遠方からの方も。25時いっぱいくらいまでおふたりほどいらっしゃった。細く長い営業であった、という印象。

2019/08/29木 k→sue

2019/08/30金
 サンフランシスコからお越しのガンジーヌ(ご本人はガイジン、と発音したかったらしい)さんとしばらく二人で話す。アメリカネイティブ(たぶん)の方の発音は難しい、精進しよう。日本語のわからない方が来店するのは数ヶ月〜半年に一度くらい。Googleマップで見つけたとか、ほかの店ですすめられたとか。3階までわざわざ上がってくるのはよっぽどの物好きであり、面白い人が多い。(たいていはアニメオタク。)「ピンクバーを教えてくれ」と言われたけど、何を答えればよかったのか。
 夜学バーという「場」においては、成人も子供も、日本語人もそうでない語人もみな同じである。ただ、その人が「何を知っていて何を知らないか」「何が得意で何が苦手か」「何を欲して何を欲しないか」といったところで、違いが出てくるというだけである。それらによっていろいろなバランスが変わってくる、というだけ。小学生や非日本語人が一人や二人いるだけで、何もかもがガラリと変わってしまう、というようなふうにはしたくないし、なっていないと思う。
 実際夜学バーにくるお客さんのほとんどは、高校生くらいに対してなら基本的に敬語で話す。小学生以下が相手でも、まだ仲良くなっていないならば敬語で話したほうがいいと僕は思っているので、お客さんもつられてかそのようにする人が多い(と思う)。
 そういう態度は、外国からきた人に対しても基礎にあったほうがよいだろう。(これはもちろん敬語の話ではなく、敬意を持って距離感をこころえ、対等な相手として接するという話。)

2019/08/31土
 夏休みの終わりの日。前半(21時くらいまで)はお客が一人または二人くらいで、かなりゆっくり話していた。そこから二人増え、二人増え、三人増え、一人増え、一時はカウンターが埋まって椅子が足りなくなった。けっこうめずらしい事態。慣れている人がパッと折りたたみの椅子を出して座ってくれたのですんなりといった。ありがたいです。
 お客さんの多くは一人でくるけど、友達を連れてきたり、初めての時は一人だと怖いから何人かで、といったパターンもとても多い。いずれにしてもありがたい。うれしい。みなさんどんどこ来てください。席が足りなくてもなんとかなるものです。(その時に「場」がどう動いていくか、というのも醍醐味だったりします。)
 顔ぶれも多彩で面白かった。東京近郊だけでなく茨城、京都、福岡、大阪に住んでいる人たちがあの狭い空間に同時にいた、というのはなかなか。また、小沢健二さんのファンだという三人組が『LIFE』というアルバムの25周年を祝っていたり。発売した時に生まれていなかった人と、当時すでにもうバリバリ(何が?)だった方とがすっかり友達で、ちょっと感激してしまった。好きなものの前ではみんな対等、ということかな、と改めて。
 あと青木雄二先生の話ができてのもよかった。唯物論や!

2019/09/01日
 高校生くらいの人を相手にするとまるで生き急ぐかのように、いろいろ話したくなってしまいすぎることがある。そのくらいの年齢だと、僕もそうだったが、大人に対して言葉を伝えることが得意ではないことが多い。賢い人は遠慮もする。だからつい、あれこれとこちらの言葉数が多くなってしまいがちである。自分の経験からするとそれはありがたいことでもあるのだが、言葉を「交わす」ことはそれ以上に重要なはずだから、一辺倒ではよくない。
 あるお客さんは、アクティブ・ラーニングを偏重している学校に通っているという。その学校で行われているアクティブ・ラーニング(以下AL)というのは単純にいえば、「生徒に能動的かつ主体的に学ばせる授業方法」のこと。具体的に何をやらせるのかといえば「話し合わせる」「書かせる」「発表させる」とかの類である。

(僕がつい最近まで務めていた学校でも強く奨励されていた。けっこう頭を悩ませたが、三年目にはかなり上手にできていた気がする。けっこう破天荒なやり口で。でもそれはまた別の話。)

 教員がべらべら喋るだけのスタイルは一回の授業で得られる情報量が多いし、理解することに集中できるので僕の経験からすると非常にありがたいことではあった。しかし教育の現場にはいろんな生徒がいるので問題も多々あり、だからALがもてはやされるわけである。
 ところが、ただALっぽい授業をやることにも大した意味はない。とある高校生は「時間の無駄」と言い切っていた。ほぼ同感である。
 高校生くらいの人と話すときも同様だ。僕が一方的に話すばかりでは問題があるが、だからといって相手に喋らせることそれ自体に意味があるわけでもない。大事なのはたぶん言葉を「交わす」ことなのだ。僕が実践していたAL(もどき)はただそのことだけを意識したものだった。
 で、このあたりのことは高校生くらいの人を相手にする時に限らない。誰に対する時も似たような心がまえがあったほうがいい。小さなお店にいる時なんかは、まさに。

2019/09/02月 小津

2019/09/03火
 初来店のかたが三名。お一人は連れられて。お一人はどうしてこの店を知ってどうしてやってきたのか、たずねもしなければ語りもしなかったけど終始自然にいてくださった。おかげでよき雰囲気だった。お一人は「飲み足りなかったので近くのバーを検索して」とのことだが本がたくさんあるのが嬉しかったそうでコーヒーだけをめしあがった。四年前の生徒がきてくれて、モンゴルのおみやげをくれた。たまたまモンゴルに行ったことがあるというお客さんがもうひとりいた。

2019/09/04水
 昼から引き続きいらっしゃった方がお一人、早い時間にもうお一人。ゆったりと時は過ぎ、20時ごろから25時までお客はなくひとりで過ごした。本など読んでいた。こんな日もある。そんな日もよい。

2019/09/05木 k→sue
 非番だったが18時半くらいに遊びに行ってみた。しばしお客がなかったのでKくん(大学生)と久し振りにまとまった話をした。22時半くらいまでいた。

2019/09/06金
 しっとりと静かな金曜日。金曜だからとてワーイ! ってならないのはこのお店の良いところだと思うけど、もうちょっとくらい人がいたっていいのでみなさんご遠慮なさらず……。(金曜のたびに言ってる気がする。)

2019/09/07土
 土曜もそんなにうるさくなくすぎた。僕はうるさいの苦手なのでこのくらいがよいですね。小声で聞こえるくらいの状態でいつもやっていきたいです。

2019/09/08日
 台風の予報があったので、最初から「きっとだれもこないだろう」と思いながら17時に営業開始。もちろん「だれかくるかもしれない」とも思いながら。ぼんやりしたり物思いにふけったり文章を書いたりなどした。本を読む体力は意外となかった。
 ちなみにこれを書いている現在は当日の21時40分で、今のところお客はゼロ。だれかくるだろうか。今夜の台風15号はよほど強いらしく、すでにJRは明朝始発から8時ごろまでの運転見合せを、京王線はきょう22時以降の運転見合わせを発表した。そういう状況なので、たぶんだれもこないだろうし、むりしてくるべきでもない。
 と、いまお店のドアが開いた。21時45分である。女性が覗き込んで、ニヤッと笑って、閉めて去っていった。

 現在、家に帰ってきてお風呂に入り、ものをたべ、オアシズのYouTubeチャンネルを見るなどして午前3時29分。あのあと、ニヤッと笑った女性はもうひとり連れてすぐに戻ってきて、そのまま零時すぎまでいらっしゃった。
 ほぼ毎回、台風の日はお客がゼロなので、まさかと思った。初めての方々だったが、楽しんでもらえたと思う。
 しばらくするとふたたび扉が開いた。よく来てくれる「奨学生」が、人を連れてやってきた。これでお客が一堂に四人。雨はそれなりに強くなってきている。
 僕もバカではないし死にたくもないので、開店からずっと天気予報とにらめっこし続けていた。Yahoo!の「1時間ごと」の天気や「雨雲レーダー」などから察するに、「だいたい1時くらいに雨風が強まってくる」と予想できた。それまでに帰宅できれば、モノが飛んできたり看板が落ちてきたりといった惨劇に見舞われることはほぼなかろう。丈夫な自転車とサンダルと合羽と、もちまえのドライビングテクニックと細心の注意で。
 24時すぎにお客がいなくなったので、ちょっと早めだけど0時半くらいにお店をでた。雨はかなり降っていたが風はまだ「暴風」ではなかった。ただ家に近づく頃にはちょっと強めになっていた気がするので、危ないところではあった。読みはだいたい的中していたということだろう。もし、お店を出るのがもう30分遅くなっていたなら、朝までお店の中にいるほうを選んだかもしれない。そのていどには自衛をわきまえている。いや、実は去年、台風のさなかに自転車で築地まで行って午前三時半に開店する喫茶「愛養」でコーヒーを飲んだのだが、道中はけっこう大変だったのだ。もちろん細心の注意は払ったが、それでも不測の事態はある。さすがにちょっと反省し、今回はかなり慎重にした。調子に乗るとよくない。ちなみにその日はお客がまったくのゼロだった。
 今回きてくださったのは、おそらく「カジュアルSNS」的なもので知り合ったのであろうおふたりと、けっこう長く通ってくれている人と初めての人の二人連れ。(こっそりと言いますが、当たり前のようにやってきて、さすがと思った。すばらしい。)
 開店した時は「どうせ誰も来なかろう」と思っていたが、勝手な予想だった。ふたを開けてみればとても楽しい夜になった。開けておいてよかった。最初にきたおふたりは、上野でバーを探してみたがどこのお店もあいていなくて、当てずっぽうで階段を登り、扉を開けてみたらしい。もう一組のほうも、片方が遠方の方(方が多い)だったので、今夜営業していなければ、ひょっとしたら一緒に来られるタイミングを逸してしまっていたかもしれない。
 うーん、あらためて「扉を開けておく」ことの大切さを噛みしめる。『ピーター・パンとウェンディ』でウェンディのお母さんは、子供たちがいつ帰ってきてもよいように常に窓を開けて待っている。

 必ず思い出すのはこの話。武田鉄矢さんのお母さんが、阪神・淡路大震災で被災して福岡に帰ってきた娘(鉄矢さんの姉)に対して、神戸に戻ってなんでもいいから店で売れ、と言ったっていう話。詳しくはリンク先へ。
 柱が折れても建物が傾いても、ちょうちんは「どこでもまっすぐ下がる」というのは、至言ですね。それが灯りになって、そこに道ができる。そしてふたたび、町が作られていく、というわけ。かっこつけるなら、僕はその練習をしているつもりなのだ。


 おまけの話。「本当に、今日はきてよかったです。また来ます!」と最初にきたおふたりのうち一人がおっしゃった。それに対してもう一人のかたが「来ないよ、この人は。社交辞令で言わないほうがいいよ」と言い放った。そして「でも私は来ますよ、わかるでしょ? こいつはまた来そうだって」と続けた。たしかに、思ったことはズバリと言うタイプらしかったので、これも嘘ではないのだろう。だが実際、ほんとうにまた来るかどうかは、もちろん今の時点ではわからない。また来てほしい。また会えるかな、どうかな、ということを、「待つ」立場であるお店の人は、永遠に心の片隅で想い続けるのである。また会いましょうね、みなさん。

2019/09/09月 soudai

2019/09/10火 あすか

2019/09/11水
 この湯島エリアで「第1回 アーツ&スナック運動」というのが催されるらしい。関係者の方とお話をした。
 正直な話、「こういう」もので面白そうだと思えるものは少ない。「街を活性化」とか「空きスナックを活用」「〇〇がアート空間に」みたいなものにはまず疑ってかかるのが僕の(ひんまがった)習性である。
 ただこの「アースナ」(勝手に略す)はあまりに近所(というかエリア内)であるのと、話を聞くかぎり文化を守り思想を延ばすためのものと見えるので、協力できることは協力したい。湯島がもっと文化的に豊かな土地になれば夜学バーも結果的にトクをするはずだし、乗り遅れて発言権が得られないままとんでもないことが進行してはもったいない。

 なんとかエンナーレとかもそうだけど、街や土地を利用したイベントは「やりたい」「やった」「やり続けている」「そのおかげで潤うところは潤う」という域を出ない印象がある。「なんのためにやるのか」が明確であり、それが「活性化(なんらかの数値が増える)」以外のところで実を結ぶかどうか、というのが重要だと思う。とりわけ、芸術やアートをうたうなら。


 ちょっと敬体にします。

 夜学バーはL字型のカウンターなので、すべてのお客さんからすべてのお客さんの顔が見えるつくりになっています。ただ、必ずそうなるわけではありません。
 たとえば、A氏、B氏、C氏と一直線に並んで座っているとしましょう。A氏とB氏が会話しています。ここで、A氏とC氏の視界からお互いが消えている(B氏がふさいでいる)場合、A氏とC氏との間にコミュニケーションが発生する可能性がほぼなくなります。
 夜学バーの根本理念は「開かれた場である」ということです。この場合、A氏とB氏との間だけで「場」が閉じてしまっているので、夜学バーとしては好ましい状態ではない、といえます。
 もちろん、A氏とB氏とC氏が一つの会話に参加していなければならない、というわけではありません。C氏には、「その会話に参加しない」という選択ができるべきです。が、しかし、同時にC氏には、「その会話に参加する」という選択もできるべきなのです。「場が開かれている」とは、そういうことだと考えます。
 この観点からすると、B氏はここで、A氏とC氏の視界を塞がないよう、少し椅子を引いて広がりを作るくらいが行儀いい、というわけです。
 また、X氏、A氏、B氏、C氏という具合に並んでいたときの、A氏の振る舞いについても同様です。X氏とB氏、X氏とC氏、という二つの視界を防がないよう、姿勢を調節する必要があります。
 と、いうのは夜学バーに特有のローカルな発想であって、よそのお店では特段意識されないことかもしれません。むしろ「閉じた場が複数ある」状態のほうが、店員もお客もやりやすい、という考え方もあります。夜学バーは「開かれた場」であることを目指す、というだけの事情です。

「場」が閉じてしまっているとき、カウンターの中にいる人(われわれ店員)はどのような態度でいるべきか、ということを考え、判断し、実践して、然るのち反省してみるのが、店側の店としての「学び」です。それを繰り返すことによって、お客も含めたお店の全体が、「場」として能く機能するようになるのだと信じております。

 なんてことを書くと、「厳しい店だ、くわばらくわばら」と思われたりして、たくさんの足が遠のいていってしまいそうな気もするのですが(そしてこの段落のような蛇足も、その気分を強化しそうな気もするのですが)、そういうことを意識してやっているお店が、実際どのように動いているのかということを、ぜひ見にきてみていただきたく思います。僕が立っている時も、僕がいない時も、ほどよい緊張感とほどよい弛緩感(しかんかん)がともにある良い場であるよう、じんりょくしてまいります。

2019/09/12木 k→sue
 非番だけど19時すぎと23時ごろにちらっと寄った。

 少し専門的(?)な話。
 とても根本的なことだけど、人ってふつう、「複数の人に同時に話しかける」ということができないのかもしれない。
 僕は演劇をやったことがあったり、学校の先生として働いたこともあるから、「複数の人に同時に声をかけるための発声や振る舞い」について意識的に考えてきたし、実地で訓練も積んできた。だからある程度は「できている」のだと思う。で、たぶんそれが夜学バーを「開かれた場」たらしめるための重大な要因なのだ。二年半やって、ようやく実感(というか言語化)できた。
 おそらく、そういうことのできる従業員が立っていなければ、僕がやっているような店づくりと同様にはならないだろう。「要因」はもちろんほかにもたくさんあって、当たり前にそれらをできるような人は、たぶんほとんどいない。
 だとすると道はいくつかで、たとえば「できるようになってもらう」か、「その人なりの方法で、違う種類の場をつくってもらう」か。当然、前者よりも後者のほうが楽だが、それだと「夜学バー」である意味がない。ただ間借りさせているだけになってしまい、世の中に数多ある「日替わり店長のバー」と変わらない。だから、そっちを選択はしまいといまは思っている。
 とはいえ、ああしろこうしろと逐一指示するのもかっこよくない。「最低限ここだけは押さえてほしいです」とか「理想はこういう感じです」というふうに、ざっくりと説明して少しずつわかってもらうのがいいのかな。考え中。

2019/09/13金
 従業員の一人が長旅を終え、家に帰る前のその足で報告しにきてくれた。うれしいことだ。どこそこの宿やバーがどうだったとか、どういうことを思ったとか。旅をほんのちょっとだけ、疑似体験させてもらう感じ。ありがたいものです。また東北に行きたくなった。
 大阪から、山口からと、一年ぶりくらいのお客がおふたり。「東京に来たからには夜学に寄らねば」と思ってくださっている方がいらっしゃるのは、お店としてほんとうに幸せなことです。
 新卒の後輩を連れてきてくださった方も。多くの人はこういう小さなお店にはあんまり行かないと思うので、「最初の経験」を早めにさせて、「そういうお店に行く」という選択肢を持たせるのはけっこう大事だと思う。僕も初めて小さなお店(喫茶と名のついたカウンターバー)に行ったのは人に連れられてで、ほんとうにその人には感謝してもしきれない。その人がいなかったら、僕はまったくぜったい、こういうふうにはなっていないので。
 夜学バーに一人でくるのに慣れてきたら、遠慮せずに人を連れてきてみてください。また違った面白さがあると思います。

2019/09/14土
 半年ぶりとか一年ぶりとか数年ぶりとかに来てくださるお客は本当にうれしい。「久しぶりかそうでないか」で接し方に差はつけないほうがいいと思ってそうしているが、心の中ではニコニコ喜んでいたりする。どれだけぶりでも、いつでもどうぞ。

2019/09/15日
 初めていらっしゃった方が四名。連れられてきた、予定がなくなったのできてみた、遠方なのでついでがあってようやくこられた、通りすがりに見つけた、とさまざま。みなさままたお目にかかれたらうれしい。
 そのうちお二人の生まれ育ちが同じ沖縄で、「そのイントネーションは」と見抜いていた。僕にはパッとわからないくらい微妙なものでも、自分の土地ならわかるのですね。たしかに僕も、「この人は名古屋だな」というのはけっこうわかったりする。外れることもあるから、あまり言わないけど。
 最後にいらっしゃった通りすがりの方は、「こんなところにこんな(文化のにおいのする)バーが!」と喜んでくださった。そういう存在でありたい。またぜひ。

2019/09/16月 soudai
 非番、最初のほう二時間ばかりいた。たまたま僕の古くから知っている方や、橋本治『幸いは降る星のごとく』(お笑いコンビ「オアシズ」をモデルにしたとしか思えない小説)を読みに通ってくださっている(そういう利用法もぜひ)方などと居合わせる。きてよかった。

2019/09/17火 あすか
 14時半ごろ店に入る。あすか氏が火曜を担当することになったが、仕事が終わってからだと18時すぎになるとのことなので、それまで暇な日はお留守番することにした。「喫茶夜学」と書いた看板を店先に立て、ぼんやりとお客を待つが、当然だれも来ない。いつか誰か、一人でもしらない人がきたら大成功だ。本など読む。
 17時すぎ、かつての教え子(いまは大学生)がバイトの同僚を連れて来店。その後、よく来てくれる大学生が遠方に住む友人を連れて来店。どちらも、ふだんは一人でくるのだが、たまにこうして、「この人は夜学バーを気に入るかもしれない」と思った相手を連れて来てくれる。そうやってお客が増えていくのは、本当にうれしいことだ。

「一人でも大丈夫ですか?」とたずねられることが本当によくある。バーというのは、僕の考え(感覚)では、「一人で行くのがあたりまえ」の場所。複数人で行く場合も、バーではその複数人が「それぞれ一人」であることが求められる、と思う。
 もちろんバーにもいろいろあるので、「ある種のバーは」という言い方にするけれども、ある種のバーは、「その場が健全なバランスを保っている」ということを良しとする。簡単にいえば、たとえば「あるお客たちは大声で騒ぎ立てていて、その横では静かにお酒を飲んでいる人たちがいる」という状態は、たぶん好ましいとされない。(「いやいや、いろんな人が自由に振る舞って混沌としているのがいいんだよ」というバーもあるかもしれないが、そういう方針のお店は実質として居酒屋やパブ、バル、クラブ、喫茶店などの業態に近くなるはず。)
 夜学バーはたぶんその「ある種のバー」の一つ。「均衡が取れている」状態を好む。そして均衡をうまくとるためには、「それぞれ一人」であったほうが、たぶんやりやすい。
 みんなでバランスをとろうとした時、「この三人は必ずセットで動く」というような前提(縛り)があると、難しい。各人が必要に応じてバラバラに動けたほうが、均衡という状態はつくりやすい、はず。

 18時すぎにあすか氏と交代、しばらく客席に座っていたのち、近所のお店をぶらりとして、夜遅くにまた戻る。「連れてきた」人は帰っているのに、「連れてこられた」人がまだ残っていた。うん、これが「それぞれ一人」であることの究極なのだ。

2019/09/18水
 前半しばらくお客がなく、思索にふけっていたところ、一名来店。それまで考えていたことを話しているうちに、あれよあれよと膨らんでいって、つくば市にお店を出す、という計画がまとまった。貧乏ゆえテナント料が出せないため、屋外で。でも屋根と座布団さえあれば格好がつくだろう、というわけでこういうものが始まることになりました。
 昨日「連れてこられた」かたが、今日もきてくださった。こんどは一人で。何もかも、そうだこういうことなのだ、と思える流れ。遠方なのであまり頻繁には来られないとは思うけど、ぜひまた関東にお越しの際は。

2019/09/19木k→sue

2019/09/20金 ※庚申
 60日に一度の「庚申」の日の晩は、眠るとよくないことがあるので夜を徹して起きているべし。千年以上まえからある風習にならい、夜学バーも朝まで営業。これが金曜日にあたるのは非常にめずらしい(420日に一度くらいの割合になるはず)。そのせいか19名ものお客にめぐまれた。夜学バーは金曜日に混むことがそんなにないお店で、8時間営業してせいぜい4~5名ということもざら。10名をこえることはそんなにない。この人数は異例だけど、「12時間営業」だったぶん人のいる時間帯はうまくばらけ、一瞬だけ満席になったにとどまった。その時はすこし、お客さんに気を遣わせてしまったかもしれない。人が多くなったタイミングでお帰りになった方がいた。
 もし、「席が足りなくなってきたけどまだ帰る時間じゃないな」と思ったら。予備の椅子が意外とたくさんあるのでスペースさえ確保すれば座れるし、立って飲む人がいてもいいし、小一時間ほど外出して戻ってきてもかまいません。ゴールデン街などでは「人が多くなってきたら先にいた人が帰る」というのが作法のようになっておりますが、あれは「近くに無数のバーがあって、ハシゴする文化が土地に根ざしている」からでもあります。そういうアテがなければ無理して出て行くことはありません。木戸銭を支払っているのだし。

 そういえば、そのうち詳しく書くかもしれないけど最近、ようやくごく近所(湯島)に「ご紹介できそうなお店」が増えてきた。ただのバーというのではなくて、本とか置いてあったりするような文化的っぽいところが意外とあったりして、ちょっと仲よくなってきたので、ご興味のあるかたは「このへんでほかに適当に店はないか」とおたずね下さい。
 一つの街に「行ける店」が複数あると楽しいものです。街ごと楽しみ、それぞれの「場」を味わい、その違いについて考えたりすると、また面白いと思います。
 人が増えて息苦しくなったら、ただ散歩するだけでも楽しいでしょう。気分転換に不忍池のあたりを見にいったりして戻ってくるかたは、けっこうおられます。

 この日のお客を分析すると1+1+1+2+2+1+1+1+2+1+1+2+1+2=19。二人連れが5組あり、人数としては半数を占めた。割合としてはかなり多い(珍しい)けど、逆にいえば一人できたお客が9名もいたということでもある。また、二人連れのうち4組は「一人できたことがある人+連れられてきた人」だった。17日の記事で書いたように、やはりこのバーは「一人で来るのがあたりまえ」で、「たまに人を連れてくる」くらいの使われ方をしているのだと思う。19人中、「一人できたことのない人」はたぶん4名で、いずれも今回「連れられてきた」人たち。残り15人のうち、「初めてきたときに一人ではなかった」人は、たぶん1人だけ。みなさま、よく勇気を出してきてくださったものです。
 午前五時の段階でお店にいたのはたしか五名ほど。庚申を守る、といっても実際に朝までいるかたは多くなく、みんな好きなときにきて好きなときに帰っていく。どうやらかつての庚申講も、夜のうちに解散することが多かったらしい。あるいは「鶏鳴」か「日の出」をもって閉会とする場合が多かったそうな。みんな翌日があるので、あまり無理はしなかった模様。長く続ける秘訣かも。

2019/09/21土
 昼、鈴木先生精読会。四名で催行。もうちょっといてもいいので、ぜひともみなさま!
 11日の記事に書いた「アースナ」の手伝いで二時間ばかりお店を抜けなければならなかったので、ちょっとだけあすか氏(火曜+α)にお留守番をお願いした。受付ブース横のドリンクコーナーでお酒をつくって出し、夜学のショップカードをばらまくなど。
 小沢健二さんのツアーTシャツを着ていたら、「小沢健二さんのシャツですよね?」とスタッフの学生に話しかけられた。着ておくものである。実は僕は、こういう不特定多数の人と顔を合わせる機会があるときには、できるだけ「そういう」服装をしていくことにしているのである。『21エモン』のシャツとか。するとたまに、自分と趣味、興味の分野が重なるような人から声をかけていただけるのだ。彼をはじめとして数人の顔見知りができ、それだけでも手伝ったかいがあった。
 19時ごろ、お店に戻ってみると、お客がきていた。ありがたい。

 あるお客さんから相談を受ける。要約すると「働いている店の方針と合わない」ということなのだが、それがまた「常連」という概念に関わるような話だったので、興味深く聞いた。やはりそういうところが、問題になりがちなのである。テキストページの「『常連』という概念について」参照。

2019/09/22日
「ずっとまえから気になっていたけど、なかなか上野のほうに来ることがなく、美術館にきたついでに寄ってみました」というかたが。早い時間だったのでしばらくゆったりとお話しをした。またぜひ、ついでがあればおいでください。全体としてゆったりと過ぎていった。

2019/09/23月 soudai
 昼、浅羽先生の会。17時すぎにsoudai氏と交代。

2019/09/24火 あすか

2019/09/25水
 これまたゆったりの日。10年前、中学校で働いていたときにその学校の中学生だった人が、いまだに会いに来てくれる。なんて嬉しいことなんだろうか?
 ところで、とても個人的なことだけど今日は僕が高1の時にネット(「ドラえもんの世界」のチャット)で出会った友人の誕生日。10年くらい安否不明で、生きているかどうかもわからない。こちらから向こうを見つけることはできないかもしれないけど、向こうからこっちを見つけることはできるようにしておきたい。そういう相手は本当にたくさんいて、だからお店を続けているというのはあるし、だから高1のとき開いたホームページをいまも続けている、というのもある。僕の最大の趣味は「再会」で、生きがいも「再会」。
 いちどでも僕と巡りあったことのある人は、ぜひ「再会」を。あるいは、「再会のような出会い」というのもあって、かけがえのないもの。「初めてなのに、初めてじゃないような気がする」とかいうような。

2019/09/26木 k→sue

2019/09/27金
 24日の火曜日、あすか氏のときに初めてきたというかたが、「ジャッキーさんという人にも会ってみたくて」とご来店。うれしい。あすか氏がいい仕事をしてくださったということです。多謝。
 ふしぎな金曜日で、21時までにお客が引いた。残ったお二人との談笑がつづき、コアタイムのはずなのに約三時間ほど新しい来客はなかった。24時くらいにお一人いらっしゃり、一時間くらい深くお話しをした。
 近所でお店をやっている方で、営業後に一杯、という感じ。僕も何度か足を運んで、志に共通するものがあるように思い、仲よくさせていただいている。
 この一年くらい、湯島にどんどん文化っぽい(ほかに形容のしかたがわからない)お店が増えているようだ。以前からあったお店もふくめ何軒かと親しくなれて、べつにそれでなにかやろうというわけでもないけど、なんとなく心強い。
「ただのバーには興味がありません!」と言い切ってしまうつもりもないけど、独自なコンセプトを掲げてやっているお店は今後もどんどん増えていくだろうから、興味は強くある。それが近所で、店主がいい人なら、仲よくしない理由はない。なにより、自分が行けるお店が増えるのは本当にうれしい。お店が好きなもので。

2019/09/28土
 バランスというのは難しい。「場」にはいろんなバランスの瞬間があって、どうしても偏ったり傾いたりしてしまう。それが均衡するようにみんなは働きかけるわけだけど、その意思がない人もいるので、簡単にはいかない。夜学バーの(僕個人のかもしれないけど)挑戦というのは、「できるだけ均衡させる」ということ。お客さんに「均衡させよう」という意思を持ってもらうことが早道のはずだけど、それは本当に難しい。
 コミュニティにもしたくないし、何かを強制したり「心得」みたいなのを壁に貼り出したりするのも美しくない。とにかくカウンターの中にいる人が均衡を心がけ、その感覚を理解してもらえるように努めるほかない。
 それは、うまくいかせようと思って必ずうまくいくようなものでもない。だからこうやって、日々文章を書いて自分自身たしかめ、あるいは読んでもらって「へえ」とでも思ってもらおうとしている。それで少しでも足しにしようと。

2019/09/29日
 七月に札幌で知り合った、「訪問と居場所 漂流教室Facebook」代表のかたがいらっしゃった。普段「誰が来た」ということは明記しないようにしているけど、ここは宣伝のため。すばらしい活動なので、ぜひご参考に。Facebookのほうがよく動いています。最近「無料化」したのですが、すさまじい決断です。
 旅先で知り合った人とここで「再会」できるというのは、至福。事前に連絡はなかったので十秒くらい「あれ? この人は? でもそうだよな? うんそうだ」にかかってしまった。ええ、ぜひとも事前連絡などなく、ふんわりとおいでください。(もちろん、あってもいいです。)
 愛知に行ってきた、という方が愛知近郊の調味料や食材などを分けてくださったので、「ほぼ愛知近郊の材料だけで作ったナポリタン」が実現。おいしかったそうです。やった!

2019/10/02水
 お客は一人。差し向かいにゆっくり話せてよかった。
 個人のツイッターアカウントのほうで、「二日間体調をくずして」と書いてみた。こんなことを書いたら、それをみた人は気を遣って、あるいは何かを恐れ、来ないのではないか、と思ったら、果たしてお客は僅少だった。偶然なんだろうけど、ちょっとは関係があると思う。「負」っぽいことは書かないほうが吉なのだろう。負っぽい場所に、進んで行きたがる人もいまい。反省。(インフルエンザが疑われるような時はお店に立たないので、その点はある程度ご安心を。)
 コーヒーを飲み、お客と話していたらかなり元気になった。あんまりろくなことは言えなかったが、仕事の相談などをしてもらえるのは嬉しい。

2019/10/03木k→sue

2019/10/04金
 初めてのお客さんが長くいてくださった。うれしい。
 人の性として「満足してしまったらもう用はなくなる」というのがあるようで、初めてやってきてとても楽しそうに時をすごし、「また来ます!」と言って帰っていかれるかたは、意外と二度とお会いできなかったりする。ちょっと「心残り」があるくらいのほうがいいのだろう。そのあたりのさじ加減まで意識してしまっても、いっそいいのかもしれない。

2019/10/05土soudai

2019/10/06日soudai

2019/10/07月小津

2019/10/08火あすか

2019/10/09水
 初めてのお客さんに対して、「今の人、この場を楽しんでもらえたかな。大丈夫だったな」と思う時がある。べつに何か悪いことをしたわけでなく、ただ単に自信がなくて。そして二度めにきてくださったとき「ああ、また来てくださったんだ」と喜び、また同じように「大丈夫だったかな」と思ったりする。そして三度めくらいで、何かがちょっと変わったりすると、「これでよかったのかもしれない」と思えることがある。けっこう十回目くらいまでは、そういう気分が続いていく。

2019/10/10木k→sue

2019/10/11金
 台風の前夜。雨風よわし。お客はすくなし。
「台風がきていますよ」という報道があると、お客はすくなくなる。これは当たり前のことだし、ずっとお店をやっていた実感でもある。「災害」となると、たとえ遠い地方のことであっても、お客は喪に服すようにすくなくなる。凶悪事件や凶悪犯の死刑執行などがあった時も、すくない気がする。これらは実感でしかなく、検証もできないが、そういうことはあるだろうと思う。世の中に「空気」というものは実在するのだ、と改めて意識する。
 予報のこととか対策のこととか、それをする人々のことなどを楽しく話し合える場として、夜学バーは存在することができたと思う。よかった。

2019/10/12土
 世の中が台風一色になっていた。あの状態で「お店を休みます」も「お店を開けます」も、言いたくなかった。それでいつもTwitterで毎日書いている開店ツイートをしなかった。
 いつもと同じように、この日にお店がどんな様子だったのかは、実際にお店に来た人しかわからない。お店が開いていたかどうかすら、「行ったけど開いていませんでしたよ」と言う人が現れるまでは、誰も証明できない。
 ひとつの色にほとんど統一されて、「休むのが当たり前」という空気が蔓延していた。インターネットだけではなくNHKをはじめとするマスメディア、街の顔や喫茶店の世間話さえそう語っていた。
 その風潮に逆らうようなことを言えば、「その色ではない色」として、特別な色を塗られる。それが僕には息苦しい。
 そんな時こそ光のように無色でいたい。

2019/10/13日
 あるお客さんのこと。台風の日は10キロくらい散歩して街を見物していたそうだ。「予報をちゃんと見れば、何時ごろ、どのあたりが、どのくらい大変そうなのかはわかるし、空をよく見て雨や風の様子をちゃんと意識しながら歩いていれば、そんなに危険はありませんよ。危険だ、休め、避難しろと一緒くたに言うだけじゃ、自分で判断したり考えたりっていう力がなくなっちゃうんじゃないですかねえ。」と。
 一人でも犠牲者を減らすためには多少大げさにマスメディアで喧伝しておいたほうがいい、というのは確かだと思う。近代流行りの人命尊重主義というのはそういうものだ。人の命は地球より重く、個人の意思や自由より重いのである。誰かが勝手な行動をすれば、他人に負担がかかる可能性もある。そういうようなことも含め総合的に考えると、「危険だ、休め、避難しろ」は妥当なのであろう。
 ただ、そういう雰囲気に唯々諾々とは従わない人たちが、たぶん世の中のある部分を支えている。こんな話もありましたが。

2019/10/14月soudai

2019/10/15火あすか

2019/10/16水
 お客は一人のみ。急に寒くなったせいか。いや、お店をやっていて人がこないと暇なので、つい「なぜお客がこないか」を、こじつけで考えてしまうのである。もちろんそんなものはたいがい何の根拠もなく、すべて「たまたま」で言い換えられるようなものだが、そういうのがまったくないとも思わない。天候は確実に客足を左右する。ほかにもいろいろあるはずだ、というふうに考えていくと、面白いのである。なんか思いつくことがあったら、教えてください。
(このお店に人気がないからだ、という言い方もできますが、10人くる日もあれば1人しか来ない日もある、という偏りについてぼんやり考えているのだということです。)

2019/10/17木小津

2019/10/18金
 夜おそい時間、従業員候補生が来たのでちょっとカウンターに立ってもらった。やっぱり「複数の人に同時に話しかける」ってのは自然にはみんな、しないようだ。これはしばらく、考えるべきテーマだなあ。どうしたらそれが当たり前にできるようになるのか。あるいは、そんなことはできなくてもいいのか。(夜学バーとしては、できたほうがいい、という立場を貫くつもりですが。)

2019/10/19土
 昼、『鈴木先生』精読会。みんなで読み進めていくのはやっぱり楽しい。
 夜は人が増えたり減ったりするそのたびごとに話題や雰囲気が自然と変わっていって、こういうお店の醍醐味をかんじた。

2019/10/20日
 昼、浅羽先生の星読ゼミ。17時くらいにひと段落。この日は18時以後も数人のお客さんが残っていた。しかし「通常営業!」とこっちは強弁しているので、しぜん夜のお客さんとも混じり合っていただくことになる。とはいえ19〜20時くらいに完全に入れ替わったか。
 夜のお客さんは多くなかったけどゆっくりできたし、昼と夜の境界線の、べつのつもりできたお客さんたちが戸惑いつつも少しずつ関わり合い、場を共有する感じは独特。楽しめる人にはけっこう面白いと思う。ただ星読は浅羽先生のお客さんたちなので、いつもと最も雰囲気の違う時間ではあります。心配な人は19〜20時くらいかそれ以降にお越しになるといいかも。

2019/10/21月soudai 22時ごろ顔を出してみた。

2019/10/22火あすか
 

2019/10/23水
 二十歳のときに酒場で出会ったある方。音楽に造詣が深く、時おりお店にいらっしゃると、決まって自作のコンピレーションアルバムをくださる。十五くらい歳上の方から最新の音楽について教わる、というのは本当にうれしい。
 その方はヒップホップがとりわけ好きなので、ほかのお客さんから教えていただいた『ヒップホップ・レザレクション』という本のことを話してみた。知らない、と言ってすぐに調べ、近くの図書館にあるから借りてみる、と。
 直接会わずとも、お店や自分を介して、いくらか興味の隣接するお客さん同士が透明につながる、というのは、醍醐味にして存在意義、かもしれない。

2019/10/24木k→sue

2019/10/25金
 24時くらいに「まだ大丈夫ですか?」と初めての方が2名。「禁煙のバーを探していて」とのこと。たしかに夜学バーは事実上禁煙だけど、どうしてわかったのかしら。
 遅い時間にお客があるとドキドキする。それはバーで飲み始めた二十歳くらいのころ、お客さんとして感じていた気持ちとあまり変わらない。「これからどうなる!?」「ここからさらに動くのか!?」というワクワク。いま、たぶんお客さんも似たような感覚になったりしているんだろうな、そうだといいな、と思っております。

2019/10/26土
 一人暮らしなのにぜんぜん働いてなくて本当にお金がない人が、担保として家にあったものをいくらか持ってやってきた。付き合いは古く信頼もしているので、それで食べさせ、飲ませ、食糧をあげた。こういうこともこういうお店の役割の一つだと思う。誰にでも食べさせる、というのとはまた違って、「友達には優しくするものじゃ」(とよ田みのる『友達100人できるかな』より)と。

2019/10/27日
 毎日リセットすることにしている。タモリさんは『笑っていいとも!』というお昼の帯番組(週に5日、1時間ずつやっていた)について「反省はしない」と言っていたらしいけど、それとちょっと似ているのかもしれない。
 お店をやっていると、いろんなことが蓄積されていく。いいこともあればあまりよくないこともある。それをリセットする。決して「消去」ではなく、「リセット(再セット)」する。しないほうがいいと判断すればしないし、必ずできるとも言い切れないけど。
 いったん、フラットな状況にする。それは「常連」という概念の拒否とつながる。(テキストのページ参照。)しっかりリセットしないと、馴れ合いや内輪感、コミュニティ化に接近していく。感情を持ち越すのもよくない。
 その都度リセットしておかないと、「ベースとなるお店の雰囲気」ができあがってしまい、「場」に宿る可能性が狭まってしまうかもしれない。少なくともカウンターの中にいる自分は、平常、平熱でいたい。
「ベース」は常に「リセットした初期状態」で、それを毎日きちんと調えておく。できるだけ可能性の広がるような初期状態を用意しておいて、毎回そこからスタートする。
「夜学バーはこういうノリの店」というのを、言えないようにしたい。
 お客さんがきたときに、「おお、先日はどうも! いやー楽しかったすねえ」みたいなところから話がはじまると、「ベース」がそれになる。もしそのときにほかのお客さんがいたら、「急に空気が変わった」みたいに思うはず。
 Aのお客さんとは「いやほんとお前ぶっころすぞところでこないだケンジとユミがさー」みたいなノリで話しつつ、Bのお客さんには「いかがでしょう、お味のほうは」というノリになる、とする。それは「言語によって空気が分断されている」状態で、「みんなで一つの場を共有する」にはなりにくい。
 いつか書いた「複数の人に同時に話しかける」というのは、「各人に対して用いる言葉が近いほうがしやすい」のである。Aの人に使う言葉とBの人に使う言葉は、あまり遠すぎないほうがいいのだ。原則として。
 もちろん、差をつけないわけにはいかないし、つけたほうが絶対にいい。誰にでもタメ口とか、誰にでも丁寧な敬語、というようなふうにすると、柔軟性も流動性もなくなってしまう。そこの絶妙な調整が、たぶん技術というものなんだと思う。
 で、まあ、その技術というものが僕に完全に備わっているわけではなく、うまくいかない時も多々ある。ただ、小さい子ども相手に猫撫で声になったり、明かに年上とわかるはじめてのお客にやたら丁寧に振る舞ったりなどは、しない。お店でなくてもしないけど、お店ではとくに。そのあたりを起点に、細かな技術はまだまだ修行。
「こないだは〜」とか「そのせつは〜」といった内容も、けっこう慎重に取り扱っている、つもり。

 いずれにせよ心配しないでいただきたいのは、僕はどっちかといえば馴れ馴れしいほうではなく、むしろ人見知りだと自分では思っている、ということ。実際どうなんでしょうか。僕の初期状態は「ちょっと人見知り」くらいなんじゃないかと、なんとなく考えているのですが。

2019/10/28月soudai

2019/10/29火あすか

2019/10/30水
 飲み屋で知り合ったキャバクラ嬢のお店に行こうか迷っている人に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」などと言ってみて感謝の言葉をいただいた。

2019/10/31木k→sue ちょっと顔を出しました

2019/11/01金
 実のところ10月はうりあげがとてもきびしかった。こういうのの理由を考えるのが好きで、たぶん増税と災害は大きい。天候もはっきりしなかったし。
 1日に消費税が上がり、台風15号がかなり大きくて、12日に台風19号がきたところで「10月はたぶんもうからないな」と思った。果たしてその通りだった。ほかのお店はどうかわからないけど、現状の夜学バーにはたぶんちょっとそういうところがある。「毎日のように外でお酒を飲む」お客さんはわりと少なく、そもそもお酒を飲まない人も多い。そうすると、バーに行く頻度はけっこういろんなことで左右されるんじゃないかと。

 個人の見解だけど、日本の人は「縁起が悪い」という感覚をいまだに強く持っている。税が上がって、災害に見舞われた10月はきっと「縁起が悪い」のだ。だからあんまり遊びに出ない。いや、これはもう妄想同然の思考遊戯です。こういうふうに考えているのが楽しいというだけで。
 続けますと、日本の人は「物忌み」をする。穢れがあれば禊を必要とする。謝罪会見を求める心情はまさにこれだと思う。何か事が起きたら、それが収束したという証拠が欲しい。「もういいよ」と言ってもらいたい。「喪が明ける」というのもきっとこれ。学級会で「仲直り」みたいな儀式をする(らしい)のもたぶんそういうこと。各種の「打ち上げ」とか、フラれて髪を切る、みたいなのも。なんというか、意外と区切りをちゃんとつけたいんだと思う。裏を返せば、そうしないとあらゆることが曖昧になってしまうような人たちなのかも。「付き合ってください」や「別れましょう」も非常にきちんとしている。
 で、10月を「縁起が悪い」とするなら、それはいつ収束するのか? 11月になればいいのである。というわけで僕は、「とくに何もなければ11月になったとたん、お客さんがたくさんくるだろう」と勝手に予想していた。それは今(11月4日時点)のところとりあえずけっこう当たっている。たんに連休だからというのもあるだろうし、11月1日が僕の誕生日(!)だったことも、多少はあるかも。
 もちろん夜学バーでは誕生日イベントみたいなことはやらない。まるっきりいつもの通りの営業。ただ、誰かくると僕がなんとなくちょっと嬉しいというだけ。「おめでとう」と言われなくても、ただ誰かがいるだけで嬉しい。初めてお会いする人でも。いつか「そういえば最初にお会いしたときはお誕生日でしたね」と言われるかもしれないし。そのくらいなぜか、僕は自分の誕生日が好き。 
 でも勝手なことに祝われるのは気恥ずかしいし気後れするので、心の中で「おめでとう」ととなえてもらうくらいでいいのです。それをわかってて、あえて言わなかった人もいるかもしれない。もちろん言っていただいたり何かをくださった方にはとてつもなく感謝をしておりますが、それと同じくらい、何もいわなかった人にも感謝しています。遠くにいた人にも。僕の誕生日を知らない人にも。(だんだんむちゃくちゃになってきた。)
 なんというか、自分の誕生日のことは誰よりも自分がうれしいので、それだけで十分なのかも。親からも兄弟からもいっさい祝われないけど、たぶんどこかで「あ、今日は」くらいは思っているんだろう。そう思えるだけで本当に十分。
 さて。11月はどうなるでしょう。10月がへこんだぶん、なんとかふくらんでほしい。「11月は景気がいいのか、じゃあ自分はいかなくてよかろう」とみんなが思ったら誰も来なくなってしまうから、こんなことを書いているのがよいのか、悪いのか。なーんにもわからない。そういうのも含めて、まったく水商売はギャンブルでございます。
(お客にとっても夜学バーのようなにお店に行くってことはいろいろギャンブルだと思うので、そのあたり楽しんでいただけたら本望です。)

2019/11/02土
 21時まで4時間、まったくお客がなかった。作業をしたり掃除をしたりぼんやりしたり。ついにTwitterの夜学アカウントで長文をしたためる始末。そこで救世主のように現れた初来店のお客。小一時間ほど経ってもう一名、また小一時間してもう一名、そして24時くらいに四名連れがだだっと。
「なにが起こるかわからない」というお手本のような日だった。「きのういっぱいきたぶん、今日はだめなのかなあ」と21時ごろまで思っていて、24時までは「今日は三人か〜でも楽しかったからいいか〜」という気分だったのに。24時の時点ではお客は一名で、その人は帰る予定を遅らせてしばらくいた。四人組が面白かったから、だそうで。そう、やっぱりお客さんとしても「うわ、おもしろ」ってなりますよね。面白いんですよ、本当に。

2019/11/03日
 昼、小沢健二の歌詞精読会『彗星』。この会をきっかけに通常営業に通うようになってくださった方はけっこう多く、ずいぶん顧客獲得に貢献(Kが多い)してくれている。ありがたいことです。
 小沢健二さんが2016年に発表(発売は翌年)した『流動体について』という曲に「意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」という歌詞がある。夜学バーができたのはその直後で、お店のコンセプトを考えはじめたころから僕の頭の中には「意思は言葉を変え 言葉は店を変えてゆく」というフレーズがあった。このホームページが言葉だけでできているのはそのせいかも。
 このフレーズはもちろん「お店は都市を変えてゆく」と続く。変わりゆく「言葉」と「都市」の間で、「お店」はかなり重大な役割を果たすにちがいない。(夜学バーはそう信じているお店です。)

 夜はまた展開の多い日だった。いろんな人がきた。新しいミッションボトルが、そういえば最近三つできた。
 一つめは「魂の本棚」。漫画家のお客さんが「本や漫画や映画をもっとべんきょうしたいのでオススメを教えてほしい」という志でつくってくださったもの。ノートに書くとウィスキー(ティーチャーズ)が無料。二つめは「なつかしい本たち」。9歳の本をよく読む女の子が「子どもの時に読んで面白かった本を教えてほしい」ということでつくってくれたもの。ノートに書くとソフトドリンクがなんでも無料に。三つめは「図書館」。ボトル主のお客さんがお店に置いている本を借りて、返すだけ。ネーポンが無料。いずれも割りもの別。
 どれも共通して「本」の出てくるものなのが面白い。みなさんよかったら。

2019/11/06水
 静水の予感。17時にお昼から引き継ぎ、21時半くらい?までお客はなし。ひとりやってきて、ふたりやってきて、ひとりお帰りになり、ふたりお帰りになり、僕ひとりになり、ひとりやってきて、三人やってきて、ふたりお帰りになり、ふたりお帰りになり、帰った。
 しばらく誰もいなかったり、いったん誰もいなくなったり、23時くらいと、24時くらいにお客が増えたり。なんだかこれまた面白い。
 覚えていること。沸かしてあんまり時間の経っていないお湯を適温と信じて飲んで火傷しかけた。ワチャア、っとなった。「熱い」ということを知覚するまでのラグが面白い、という話をお客さんとした。
 本を一冊いただいた。好きな画家(児童書などの奥付ではイラストレーターではなく画家と書いてあることがけっこうある)の装画だったので良い本だろうと思い、ちょっと読んでみたらかなりよさそうだった。うれしい。
 初めていらっしゃった方が、「よかった」と安心しておられた。「私の考える夜学とか文化というものと大きくずれていなくてよかった、場違いでないようでよかった」というような意味合いらしい。

「夜学」という言葉は開店時、すでにほぼ死にかけていた。あんまり使っている人は多くないし、じっさい夜間学校や大学の夜間学部はどんどんなくなったり縮小していっている。死語になりつつある、ということは「手垢」が落ちている、ということでもある。だから「これでいこう」と思えた。
 手垢のついた言葉というのは、たとえば「隠れ家」とか「レトロ」とか「季節のフレッシュフルーツカクテル」みたいな、特定の領域でよく使われるありふれたフレーズのことで、悪くいえば俗化しすぎてしまっているもの。(そういう言葉を使ったほうがお客は行きやすいしじっさい流行ると思う。)
 手垢のついた言葉というのは、わかりやすい言葉。だから、手垢が落ちているということは、わかりにくいということ。言葉のイメージをみんなが共有していなくて、人によってさまざま違ったイメージを持ちうる、ということ。
「夜学」という言葉は、なんだかよくわからないから選んだ。イメージがわきにくいから。だから「なんだろう?」と思ってもらえるのだが、同時に「自分が思ってるようなのと違うかもしれない」とか「自分はそこにふさわしくないのではないか」とも、思われやすい。そもそも「なんだかよくわからないから怖い」が最初の印象になってしまうことも多いだろう。
 だから「行きにくい」と思う、このお店は。
 で僕は「行きにくい」お店にしたいわけではない。
 困った。(今ここ)
 でも二年半やってきて、いったいこの夜学バーというものがどういう場所で、どういうふうな志を持っているのか、ということが、やっと自分でもわかってきた、というか、言語化できるようになってきた。とはいえ、「手垢をつけよう」というのではない。「手垢をつけないよう、手を洗ってからみんなによく見えるよう高く掲げる」みたいなことである。二年半、手を洗っていたわけだ。その「見せ方」によって、なんとなく狙ったイメージに近いものを喚起できればいいな、というような。
 これからまたちょっとずつ、この「夜学」という言葉の意味やイメージをより端的に表明していきたい。年内くらいをめどにまずはHPの文章を洗おう。

2019/11/07木k→sue

2019/11/08金
 夜学バーはL字カウンターであるが、本当はレの字カウンターのほうが好きである。何度か言っているけど。
 多くの一般的なバーはI字(PIERROTのメンバーではない)で、カドがなくまっすぐ一本。この形の利点ももちろんあるが、僕がやりたいようなお店づくりは、この形だとむずかしい。「一つの場」というものが成り立ちにくいから。
 L字はカドが直角で、レの字は鋭角。
 五人のお客がいるとき、真ん中の三人で盛り上がっていて、端っこの二人が会話をする、という状況を想像する。端っこの二人というのは、L字ないしレの字の始点と終点のあたりにそれぞれいる、ということ。この場合当然、L字だと二人の距離は遠く、レの字ならやや近くなる。
 僕は本当はレの字が好きだから、L字でお店をやっているとたまに歯がゆい時がある。レの字なら端っこの二人がもうちょっと話しやすいのにな、と。ほかにもレの字のメリットはあるが、詳しくはこのHPのどこかにある『場の本』PDFをどうぞ。
 ではL字のメリットはなんだろう。実はあんまり思いつかない。「カウンターの中が広くなる」というのは、主に店側の事情。
 しばらく考えてみるので、何か思いついた人は教えてください。

2019/11/09土
 高岡のバーで出会った方がきてくださった。高岡とは富山県の街であり、僕は旅行で何度も行っている。「高岡の好きなバー」を僕が三軒挙げたら、「自分もその三軒ばかり行ってます」とのこと。あれだけたくさんお店があって、三軒がすべて一致するというのはすごい。いかにその三軒がすばらしいか、というのと、いかに僕の嗅覚がすばらしいか(!!)ということ。ちなみに三軒とも、それぞれ「文化度の高い」素敵なお店。気になる方はおたずねください。

2019/11/10日
 名古屋に住む方がひとり、茨城に住む方がふたり、神奈川に住む人がふたりいらっしゃった。あとは東京の方だと思うけど、地方出身者や地方に長く住んでいた方ばかりだった。グローバルというと変だから、ニッポナルとでも言いましょうか? いや、レットアルのほうがいいかな。列島al。
 東京はどこでもそうだと思うけど、夜学バーはとくにそうかもしれない。高校生も70歳もやってきた。色とりどりの時間と空間が混じり合う感じ、そういうのがずっと理想です。

2019/11/11月soudai

2019/11/12火
 今日は群馬からのお客さんが。長くいたアメリカから帰国してきたという人も。出会った時は中学生だった相手や、15年前に肩を並べて飲んでいた方まで。初めていらっしゃるお客さんも、古くから知っている人も、みな当たり前に同じ場を共有して、内輪にもへつらいにも堕さず、対等な空間をつくる。言えば簡単だし美しいけど、毎回ひきしめてかかり、常にうまくいくともかぎらない。でもアドリブに身体を揺らすように、場を読みながらバランスをとっていくのは本当にスリリングで、楽しい。

2019/11/13水
 二軒目としてやってきた三人連れ。夜学バーは一人でやってくるお客が8〜9割だと思うけど、たまにこういうこともあって面白い。三人はすでに知り合いなわけだから基本的にはそこで会話は「閉じがち」になるのだが、狭い店なのでもちろん折に触れて「開く」。そこで新しい、三人だけではあり得なかったほうへ向かうこともあるし、こちらとしても「知らない世界」を見せてもらっているようで面白い。
 一人でやってくるお客さんは「個人」としてやってくるが、複数でやってくるお客さんは「個人」であるのと同時に「関係」も連れてやってくる。それを覗き込んだり、入っていったり。あるいは「関係」から離れて「個人」として店のなかに溶けて行ったり。豊穣なものがもたらされてくる気持ちがする。
 もちろん、複数でやってきたお客さんがかたくなに「閉じて」いつづけてしまう場合もあるし、場のバランスを支配しすぎてしまうこともある。そこで腕の見せどころとなるのだが、ううむ、もっと磨かねばなりません。

2019/11/14木k→sue

2019/11/15金
 旅先の旅館で出会った方がいらっしゃった。ゲストハウスとかでなく、おばあちゃんがほとんど一人で切り盛りしている古い旅館のお風呂や朝食で一緒になった方。北関東にお住まいの方も。11月はなんだか遠方の方が多い気がする。単純に10月の反動なのかしら。増税と災害や悪天候で先月はなんとなくどんよりしていた気がするけど、1日の記事で触れたとおり、やっぱり今月に入ったらみんなの気分は変わったらしい。12月はきっと寒くなるから、いったんはちょっと落ち込んでから、年末に向けてふたたび浮かれてくるんじゃないかな、いやでも暖冬っぽいし……とか、いろいろ予想して、また面白がっております。

2019/11/16土
 11月ははじめての方や二度め、数度めくらいのお客がけっこう多い。なんとうれしいこと。
 それにしても「ぜひまたきてほしい!」と思ったとき、お店の人間としてはどういうふうに振る舞ったらいいんだろう。何を言おうがそれを決めるのはお客さんのほうなので、こちらにできるのは「いつもどおりに粛々とやる」だけ。この場を気に入っていただけるよう、全力を尽くして美意識のバランスをとりつづける。あとは祈り。祈ってます。
 特殊なことをしようとするより、いつも通りがいい、はず。このお店にくることが「すでに日常である」かのように感じていただけるのが、いちばんいいと思う。めっちゃ難しいことだけど。

2019/11/17日
 就職してから心身ともに忙しくて学生の頃より夜学に来るペースが落ちた、という人。大阪からの来訪者。塾帰りの高校生もフラリ。昔からよくきてくださっている方も、三度目くらいの方も。はじめての人も。人がきてくれる、というのは本当にうれしい。後半、みんながぼそぼそとりとめなく話していて楽しかった。

2019/11/18月soudai

2019/11/19火あすか

2019/11/20水
 18日から札幌に行っていた。空港からそのままお店へ。飛行機が遅れてしまったのでお昼のさちあきさんさんにしばしお留守番をお願いした。ありがとうございました。
 開店当初からのジンクスとして、「旅先から帰ってきてそのまま店に立った日は、ぜんぜん人がこない」というのがある。この日もお客は1名。なんということか。旅行なんか行かないか、行ったとしても隠していたほうがいいのだろうか。
 さすがに「楽しい時間を過ごしてきたことがほぼ確定している人の店に行っても楽しくなさそう」ということでもないだろうけど、ともあれ「旅行帰り」という色は一つ、つく。無色透明ではない。それだけで多少の「イベント性」みたいなのが生まれてしまうということなのかもしれない。それでなんとなく敬遠してしまうのか。わかるような、わからんような。そもそも考えすぎなような気もする。でも本当に、実際にこの2年半、ずっとそうなのだ。これを読んでいるごく少数の皆さん、僕が旅行に行っている様子があったら、まあ、よかったら、その、お願いします。この件について、一緒に考えに来てください。

2019/11/21木
 i氏初登板。20時ごろ交代と思っていたが意外と早く、19時ごろきた。
 はじめてのお客が前半におふたり、後半におふたりの計4名。さぞべんきょうになったでしょう。
 僕は21時くらいからちょっと近所で遊んでいて、23時ごろくらいに戻った。するとお客が3名。最近関東に戻ってきた以前からのお客と、はじめてのお客がふたり。関東に戻ってきたお客が「なぜ自分はこのお店に来るのか」ということを考えはじめたので、みんなで掘り下げた。面白かった。
 かなり乱暴にまとめると、夜学バーが「考えることを許容し、促進させる場」であることに尽きる、と思う。誰かの「考える」が、いつの間にか誰かに「考える」させ、そのうち場に投げ出されて、みんなで「考える」になったりもする。それで最初に考えていた人は、自分一人では考えつかないような発想を得る。ほかの人たちは、そもそも自分の発想にはないところから考えることができるから、新たな知見を得られる。そういう環境が、たぶんこのお店にはある。少なくとも僕が立っている時は、そうなるようにかなり意識している。
 はじめてのおふたりも、極めて個人的なはずのテーマについてあれこれ頭をひねってくださって、おかげで実りのある時間になった、はず。

2019/11/22金
 金曜日。雨降りで寒かった。お客は2名。こりゃー大変なことですよ。
 夜学バーは大半のお客さんたちにとって「わざわざ来る」店で、「帰り道にちょっと」とか「近所だし行ってみるか」という店ではない。そのせいか天候の影響をもろに受ける。雨が降ったら夜学バー、寒くなったら夜学バー、みたいなキャッチコピーでCM打ちたいくらいだ。誰かバナーかなんか作ってください。いやほんと、ちょっぴりとでも意識してみてくださいましね。「逆張り」する人が多くなったら、けっこう面白くなる気がするので。「あえて今日は」と思う練習、大事。(ということで。)

2019/11/23土
 それなりに静かな日。少人数でずっといろいろ、お話ししてました。
 僕の本『小学校には、バーくらいある』が初売り。5冊売れた。複数冊買ってその晩に母娘そろって読んでくださった方がいて、夜中に感想(というか叫び声?)が届いた。こんなにうれしいことはないというほど嬉しかった。
 なんでしょうね。届くこと。伝わった感触。手ごたえというより、手ざわりみたいなもの。僕は自分の書いた物語が本当に愛しいから、だれかに読んでもらって、好きになってもらえると、あの人たち(登場人物)の存在がよりいっそう確かになったように思えて、幸福なのかも。それで「楽しんでもらえた、よっしゃ!」というような「手ごたえ」じゃなくて、「やっぱりそうだよね、ここにあるよね」というような「手ざわり」みたいなものを、感じる。ロマンチック。
 改めて、みなさん買って、読んでください。まちがいなくすてきにすばらしいお話なので。1200円。ぎりぎりのねだんです。(『21エモン』で21エモンがオナベを買うときに1円足りないからまけてくれと言ったらお店の人から返ってきたせりふより)
 考えてみると、売りはじめた初日にもう小学生の読者が生まれた、というのもすさまじい。ありがたいことです、ほんと。

2019/11/24日
「文学フリマ」へ『小学校には、バーくらいある』を売りに行っていたため、序盤だけi氏がおるすばん。僕が到着すると、すでにお客が1名。「あさってふるさとに帰る(引っ越す)」とのこと。僕の本を買って、のちにすてきな感想を書いてくれた。
 お店への行きやすさは、住んでいるところに左右されるところが大きい。近場に動くのならまだしも、何百キロ何千キロと離れたところに行ってしまうと、なかなか頻繁には来られなくなる。さみしいけど、もう来ないということでもない。いつでも、また。
 はじめてのお客さんから「知的な会話をするお店ですね」と言われる。揶揄ではなさそうだった。知的とはどういう意味なのかはさておき、僕がめざしているのは「考える」ことをかませて(必ず経由して)会話すること。べつに難しいことを考えなきゃいけないのではなくて。思ったことをなんでもポンポンと口にするとか、知っていることを滝のように垂れ流すとかでなく、その場その時に応じた言葉を出すようにする、みたいなこと。けっきょくのところ知的とはそのくらいのことなんだとちょっとは思う。

2019/11/25月soudai

2019/11/26火あすか

2019/11/27水
 20日の記事に書いたように、「旅先から帰ってきてそのまま店に立った日は、ぜんぜん人がこない」というジンクスがある。この日は実質0人。実質というのはお昼の部からのお客が一人いたから。うーん、すごいものだ。やっぱり旅なんかしないほうがいいのか、したとしても言わないほうがいいのか。いろいろ考えてしまった。
 現代の人は「日常」と「非日常」がはっきり分かれていないと気持ち悪いと感じるのかもしれない。だから「旅行から帰ってきた人」のような、日常だか非日常だかわかんないような存在は遠ざけたいのかも。なんてまあじっさいは寒くて雨降りだから、ってだけなんだろうけども。人がいないと考えが進みすぎちゃって。
 あえての「逆張り」おねがいしますね……。雨が降ったら夜学バー。寒くなったら夜学バー。ジャッキーさんが旅行から帰ってきたら夜学バー。(NEW!)

2019/11/28木 →i
 ミッションボトル「図書館」活用される。本を借りて、返すとネーポンが飲めますよというシステム。お店の片隅に「図書館」と書かれた棚があるので、そこに借りたい本があればどなたでも借りられます。どうぞごひいきに。
 同じビルのべつのお店に行こうとしたが、開いていないからと入店された方が2名。うれしい。街の偶発性。途中でi氏と交代。

2019/11/29金
 さっそく本を返しに来られた。活用されている。金曜、お客は総計7名。このくらいがちょうどいいのかもしれない。もっと多くてもいいけど。大切なのは緩急というか、いろんな日があること。

2019/11/30土
 一対一で向き合う時間もあり、複数の時もあり。
 10月に予言した通り(?)、11月はなかなか賑わった。でも寒くなったせいか、下旬はあんまりふるわなかった。通常営業だけで累計200人きていただくというのを店を永続させるための目安として考えているのですがまだまだ届かない。あまり性別で語りたくもないけど男女比はちょうど6対4くらい。半々だと気持ちいいけど、ロクヨンというのもなるほどそんなもんだろうなというバランス。ナナサンやハチニーではさすがにアンバランスな感じがする。
 この日は女の人だけだった。そんな日もある。
(もう、こうやって「女の人」と書くだけでも、けっこう緊張してしまう。だからあんまり書いていません。)

2019/12/01日
 高校生が修学旅行のおみやげをミッションボトル(より適格には「ボックス」)にしたいというので作ってもらった。「夜が口コミ」というので、住んでいるまたは住んでいた街のおすすめのお店を紹介すれば本場ベトナムコーヒーが召し上がれますというもの。ふるってどうぞ。
 札幌の老舗喫茶店で袖触り合った(我ながらすごい話ダ)方がご来店。ほっとくとそういう営業(?)ばかりしてしまう。近場のお客さんにももっとアプローチしないと。と思いつつ、やっぱり遠くからとか、いろんな人にきてもらったほうが幅があっていいですよね。

2019/12/02月 soudai

2019/12/03火 あすか
 非番だけど近所にいたのでちょっと一杯いや数杯。はじめての方がおふたり、二度めの方がおひとり、いらっしゃったので、いてよかった。
 お客さんとしてカウンターの外に回ると、とたんに無責任になる。ある程度意識的にやっているが、いや、だってカウンターに座るのってとても楽しい。店長として内側にいるとみんなの意識と視線がほとんど常に自分に集中している状態だから、いっときも気を抜けないわけです。それが外に出たら、もう、自由というか。たまにそっちの気分も味わわないといけない。お客が「自由」と感じられるお店でなくては。そして、それでいて、わるくならないこと。放縦ではなくて、みんなとその場を尊重したうえでの、自由。それが実現するように、カウンターの中にいる人はいつも心がけていないといけない。どっちの立場も気持ちもわかっておくと、なんとなくそれがちょっとはできるような気がする。とにかく、楽しく。さみしさのないように。

2019/12/04水
 常に1〜2人がいて、ゆっくりと入れ替わっていった。お昼から引きつづきいらっしゃった方もいれば、0時半くらいにおこしになった方もいたので、細く、長い日だった。

2019/12/05木 →i
 僕のいた間はお客なし。交代してすぐにお客あらわる。近所に遊びにでた。

2019/12/06金
 とても忙しい人が合間を縫って、僕の本だけ買いに来てくれた。ありがたい。
 けっこう前、夜中にふらりと登ってきた方が、二度めのご来店。ありがたい。

2019/12/07土
 名刺を片手に入ってきた学生の人。通りすがりとのこと。かなり長いあいだいてくれた。ただ帰るタイミングを見失っていたかもしれないけど。
 一度めは「見つけた」ことが「行く理由」になる。二度めは、そうではない理由が必要になる。二度めの理由をなんとか見出してもらえるようなお店でありたい。いったいどうしたらそうなるのだろうか。やれるだけのことをやるしか、とくにできることはない。

 某従業員が、ある計画を持ち込んでくれた。夜学バーを使った新しい新プロジェクト。楽しみだ。実現が待たれる。早ければ年内、遅くとも一月には。「これをやって」と言ってやってもらうのも助かるし嬉しいけど、「こういうのやりたいんですけど」と言われてその実現に自分が力を貸すほうが、ずっと楽しいしうれしい。

 あるテーマが俎上に上がる、とする。たとえば「佐賀県について」。佐賀県出身者が一人いて、あとの人は佐賀に行ったことがない。そうするとたった一人だけ佐賀についての実感的データをたくさん持っていることになる。だからその人は「いや佐賀はそういう土地じゃないよ」と言うことができる。だけど賢い人だったら、「自分は佐賀についていろいろ言えることがあるけれども、それだって主観的な見解の一つに過ぎない」ということがわかる。誰の発言も「一つの意見」として等価であり、「佐賀出身者が言うのだから正しい」となるのは、冗談としてオチをつける時のみである。だが確実に、佐賀出身者の言葉は重い。正しさとは別の単位が、存在感として増す。きっと面白い展開にはなる。
 佐賀に行ったことのない人たちは佐賀のことをあれこれ話す。そのとき佐賀出身の人は「わたし、実は佐賀出身で」という一言を、言うか? 言わないか?
 そういうところからして、選べる。自分がどちらに転ぶかによって、ずいぶんと話は変わってくる。こういう「場」の面白さというのは、そういう自由さと、転べる幅の広さにあり、なんてことを思った。

2019/12/08日
 清澄白河でのある催しで出会った方がきてくださった。以前飲みに行ったバーで働いていた方もきてくださった。「よき」と思ってもらえるような時間がつくれただろうか。「二度め」ということについて、いつも考える。そのあたりについて、『小学校には、バーくらいある』という名作(僕が書きました)の第3章のタイトルが「二どめは、ずっと」というもので、この言葉の持つ広がりや密度はかなりすごい。いま実はその解説めいたことをしようと試みたんだけど、無理だったので消した。よかったら、夜学バーに売っている『小バ』を読んでみてください。宣伝。
 ともかく、一度きてくださった方には、原則またきてもらいたい。二回きてくれたらそこで終わり、ってことはもちろんなくて、回数がわかんなくなるくらいきてもらうのがいちばんいい。でも、そうなるにはお客のほうに「行く理由」がずっと必要になるし、お店にも「きてもらう理由」がずっとちゃんとないと難しい。で、「ずっと」を実現するヒントは、たぶん「二どめ」にある。と、これはちょっとポエムすぎるか。とにかく「いいお店」をつくっていなくちゃ。

2019/12/09月 soudai

2019/12/10火 あすか

2019/12/11水
「このお店は何時くらいが人多いんですか?」とたまに聞かれますが、もうほんとにわからない。20時から24時くらいがコアタイムかな、というくらい。といって17時台からすでに数名いることもあって、なんともいえない。ゆっくり話したい人は早い時間がいいと思うし、誰かがいる時間がいいなら遅めがいいかと。22時以降から人が増えることは多くないけど、けっこうあるし、あってほしい。24時前後だったら胸を張ってお入りください。もうちょっと遅いときは、ちょっとだけ遠慮がちに。うーん、ようするに、いつでもいいから、とにかくおいでくださいまし。いつでも人がいない可能性ありますし、いつでも人がいっぱいいる可能性があります。
 柿いただいた。柿だいすき。ありがとうございます。すかさず切って出しました。そういうタイミング、逸しがち。

2019/12/12木
 20時すぎにi氏と交代。
「納得できない」ことがあったら、「納得したい」ではなくて「これを自分は納得しないんだな」と思う、しかない。そこから「なぜだろう?」とか「どうしようか?」に発展する。それがひとをまえにすすめるのだとおもいます。

2019/12/13金
 たぶん通りすがり。ふらりとやってきた姉妹。するっと場に入り、何気なくすでにいた人たちと会話し、自然にすうっとお帰りになった。そういう人たちに対して「すてき!」と思うのと同時に、そういうことが起こるようなお店なのだ、ということが嬉しい。さらなる精進、けっぱろう。

2019/12/14土
 開店してまもなく高校生やってくる。しばしぼんやりと二人で話して20時すぎ、「そろそろ帰らないと」というくらいの時間になって、どどどっとお客がやってきた。「これから面白くなりそうだけど」と彼は惜しみつつ帰っていった。何事もタイミング、というだけのことなんだけど、もっともっと、素敵な場面になるようなタイミングをたくさん持ったお店にしたいものですよ。
 この日は三人連れがふた組。かなりめずらしい。たいていのお客は一人でやってきて、せいぜい二人連れくらいまでが多い。五人とか六人とかもごくまれにあるけど、それもまた面白い。
 場ア師(いまてきとうに名付けた謎の名称)としては、そういう時こそある意味「腕の見せどころ」になる。いや、難しい。場のバランスはどうしても偏りがちになる。その中で、どのあたりでこう、手を打つか、というか。僕としてはずいぶん楽しく、ためになっております。みなさまもよかったら、できる限り楽しんでいただければ、幸いに存じます。二、三人でぼそぼそ話していたところに五人増えて、ぐるっと七、八人の「場」に変わる。そのダイナミズムを楽しんでいただき、かつ、場のバランスがよくなるようには自分はどうしたらいいだろうか? なんてことを、考えながら居てくださったら、夜学バーとしては理想の状態です。

2019/12/15日
 早い時間に高校生が二人。同じ学校の友達だけど、待ち合わせたのではなくただ鉢合わせたようだったので、こちらとしては嬉しい限り。そう、そういうことが起こるようなお店、っていうのは最高ですね。(自分で言う。)
 後半は、何日か前とまったく同じ顔ぶれになった。意外とめずらしいのです。夜学バーは「毎日のようにくる近所に住んでいるお客さん」がおらず、ほとんどの人が別エリアからわざわざきてくださるか、帰り道などにちょっと遠回りして寄ってくださるので、一人ひとりの来店頻度はたぶん低いほう。客単価も高くない。もうからない。だから「たまに来てくれるお客」を無数に増やすしかない。というわけで、地道に広報活動をしないと。みなさまの噂話も大きな大きな力なので、よろしくおねがいいたします。

2019/12/16月 soudai

2019/12/17火 あすか

2019/12/18水
 仕事は楽しんだほうがいい、楽しいと思える仕事をしたほうがいい、と思ったほうがやりやすい世の中になっているような気がする。(どういうことだ? とか、べつにそうでもないんじゃない? と思う方は、ぜひともお話をしましょう。)

2019/12/19木
 僕の自主制作した児童小説『小学校には、バーくらいある』を読んで「ミルクセーキを飲んでみたい」と注文してくれた人が。とてもうれしい。そういう人がいるかもしれない、と思って、ミルクを100円くらい高いのに変えたかいがある。
 書いていたとき(4月ごろ)はいろんなお客さんに「小学校の頃にどんなふうに遊んでましたか?」と聞きまくっていた。それこそ、前月まで6年生だった女の子(つまり主人公とほぼ同じプロフィール!)からも。それらの聞き取りは本文にかなり影響しています。みなさま本当にありがとうございました。まだ在庫は売るほどあるので、お店で売っています。
 20時にi氏と交代して、新幹線で上越へ。

2019/12/20金
 来客多し。タイミングはばらけたので常時4〜6名くらいいるというようなちょうどいい塩梅。
「ジャッキーさん(僕)が遠方から帰ってきた日はお客が少ない」というジンクス(というか統計的に有意そうなデータ)を見事に打ち破ってくださった。ありがたい。でも次が怖い。もうしばらくは「逆張り」をお願いいたします。雨が降ったら夜学バー、寒くなったら夜学バー、ジャッキーさんが遠方から帰ってきたら夜学バー……。
 年末で金曜、ということがどの程度作用したのか。久々の方もいらっしゃったし、忘年会の帰りや二次会というような方々もいらっしゃった。19日は上越市に泊まったのだが、「夜の街が賑やかなのは今の時期だけ。忘年会シーズンが終わって根雪になると、驚くほど街から人がいなくなってお酒の店も平日はたいてい閉めてしまう」というような噂を聞いた。忘年会という文化、おそるべし。そういう季節モノに左右されすぎないような、安定したお店にしていきたい。そのためには、順張り(?)するお客と逆張りするお客がちょうどよくバランスよくいていただけると助かるのであります。
「月曜から遊ぶとか無理」って人と「月曜だし遊びに行こう」という人と、どっちも。あるいは「曜日とか意識したことがない」というような人も。

2019/12/21土
 昼、鈴木先生精読会……のはずが参加者一名のみで、いろいろと複雑で大切な話に花を咲かせてしまった。面白かった。彼と話していると、頭をよく使って楽しい。相手もそうなのだろう、嬉しそうに帰っていってくれた。というわけで「生徒会選挙‼︎」編の最終回は次回、ですかね。いつにしましょうか……。
 本だけ買いにきた方がいたり、忘れ物を探しにきてすぐ帰った方がいたり。それをみてなんか嬉しい気持ちになってしまった。人が無遠慮にするっと出入りできる空間、というのがなんだかんだ理想だなと。
 後半、小沢健二スタンの女性三人組がいらっしゃる。といってべつにそういう話ばかりするのでもない。それぞれにとって関心のあることが混じり合う。それはジョージ秋山だったり魔神英雄伝ワタルだったりサムライトルーパーだったりする。いやオタクっぽいものごとばかりではなくて、同じ時代を生きている者どうしが当たり前に共有してること、たとえば世の中の空気や雰囲気だったりとかも、いつのまにか話題にのぼる。
 高校一年のときに「ドラえもんチャット」にはまって毎日何時間も入室していた。ドラえもんを好きな人たちが集まっていたが、ドラえもんの話はほとんどしなかった。だけど例え話の題材はけっこうドラえもんだったりする。そういうくらいのものなのだ。
 そこへ二人連れがいらっしゃる。「地方に住んでいてフリーランスで働いているがやはり東京に出たい、でもお金がない。どうしたらいいか」という相談をきく。若い女性。とりあえずは実家を軸足として、身軽な状態で住んでみて様子を見るのがいいかも。月契約で安くて安全なゲストハウスなんかないもんですかね〜などと話す。
 グループがふた組、となると基本的にはそれぞれ閉じる。それでもやはり混じり合う瞬間はあって、フラッシュを焚いた写真のように記憶されている。

 現在1月19日です。まとめて書きます。

2019/12/22日
 フードはナポリタンをひっそりやってたんだけどオーダーがないと材料が傷むし時間も手間もかかるので悲しいかなこの小さなお店には向かない。スガキヤラーメンがせいぜい。スガキヤは600円で出しております、特製ラーメンは800円。ナポリタンは曜日を決めて出してもいいかもしれない。水曜限定、とか。

2019/12/23月 soudai

2019/12/24火
 クリスマスイブとかいう日、去年は僕の立っていた時間にはお客がゼロだった。今年は少々のご来客あり。
 ところで、この日から1月5日まで「19歳未満は100円」ということにした。結論からいえば、新しい顔を見ることはほぼなかった。だけど前からきてくれていた中学生や高校生が一人で、あるいは五歳児が親に連れられて顔を出してくれたので、やってよかった。次は春休みかゴールデンウィークにまたやってみようかしら。

2019/12/25水
 帰省する前に、と来てくれた大学生。二度目だけどもう何度も通ってくれているような気がする。高校生の頃から地元のバーによく通っていたらしい。初めて会った人と「再会」のような気分になることがあるように(あるんですよ)、「場」みたいなものにもそういうことはあるのだと思う。お互いに。
 二十歳ちょっとの頃に大阪の十三に「家庭料理 おかわり」というお店があった。看板に惹かれて勇気を出して入ったその小さなカウンターだけのお店で、その日ママに言われたことは忘れられない。「なんか、初めて来てもらったのに、初めてっていう気がせえへんねえ。」数年間は関西に行くたび立ち寄ったが、あるとき火災で全焼した。不謹慎と思わずに聞いていただきたいが、あれも狐とか妖精の類だったのかもしれない。ふざけているわけではぜんぜんなくて、僕はあのママとあそこのお客さんたちとの「再会」のためにお店に行くし、お店を続けつづけているのかもしれない。詩のようなことを言うと、狐とか妖精ってのはそういうところをすみかとする。幻や狂気などではなくて、「再会」の種のことなのだ。

2019/12/26木 →i
 今日も「帰省前に」という方が。ふるさとへの「ゲート空間」として使っていただけるのは非常にうれしい。国境の夜学バーを抜けると、故郷であった。

2019/12/27金
 仕事納めの時期。特にお客は多くなくゆったりと時が進む。最後に若手従業員が二人のこり、ちょっとだけ忘年会のような感じになる。
 あんまりイベントっぽいものは好きじゃないけど、こうして自然にある輪郭ができていくことはけっこう楽しい。

2019/12/28土
 女子校で働いていた頃の教え子と、会おう会おうと言いつつ急用ができたりしてなかなか時間が作れないでいたので、ちょっと早めにお店に来てもらってお話をした。やがて開店時間になり、いろんなお客さんが増えていく。中学生、大学生、新卒一年目、二十代、三十代、四十代、五十代くらい? と、世代だけとっても色とりどりの人たちに囲まれて、初めて来た彼女はさて何を感じただろうか。楽しんでもらえていたらいいな。
 夜学バーに限らずこういう小さなお店は、5〜6時間くらいいて人が増えたり減ったりして場が流転していくさまを見ているのがいちばん楽しいと思う。お時間に余裕があるときはぜひ。もちろん、そのさいは「名客」でいてくださいますよう。(おかねの話ではありません。)

2019/12/29日 k→
 近所で働いているんだけど年明けからしばらく関西に異動になってしまう、ということでしばしのお別れを言いに来てくださった方が。店舗は定点なので、どうしてもそういうことが起きてしまう。ただ定点だからこそ、偶然に頼らずに「再会」ができる。いつでも窓を開けておかなきゃ。

2019/12/30月 soudai

2019/12/31火
 大晦日で電車も動いているので夜中(けっきょく朝方)まで営業。いったん帰ったり外に出たりしてまた戻ってくる、という人が三人もいた。二時くらいに家を出てきました、という人もいた。大晦日のこの独特の感じは大好き。みんなもきっと好きで、「21時ごろに退店して帰宅しておそば食べて家族と年越ししてからまたお店に戻ってくる」なんてこともあえてするんだろうな。「いったん隣のお店行ってきます」と出て行った人が、そのお店の主人を連れて戻ってきたり。ところで、昨年の年越しもいらっしゃったな、という方が何人かいらっしゃったので、その旨を伝えると「そうだっけ?」と。うん、なんだか、いい。

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