ジャーナル 2018年後半 2019年前半 2019年後半 TOP
2019/01/01火
晴れたれば、鮮やかれ。元日はお客さん少なかったけど、10年以上前に某バーで僕やsueさんと肩を並べて飲んでいた方が来てくださったり、遠く海のない県から来てくださったり。お店ってのは開けていれば何かある、というのは本当ですね。
そのひさかたぶりの方を通じて、もう70歳になるはずの当時の飲み友達の方とお電話させていただいた。感激。年末年始やり続けるのはどうなん? というのは自分でも思うんだけど、こういうことがあるからいい。ひさびさに来てもやっている。遠くから来てもやっている。窓が開いている。火がともっている。それって本当にありがたい。なんてこと言って来年は休むかもしれませんが、いずれにしてもよろしくお願いいたします。
2019/01/02水
大好きなお店の店主さんがお子さんとおじいさん二人(お客さんたち)を連れてやってきてくださった。こういうことも正月ならでは。ありがとうございました。励みになります、好きな人たちに応援していただけるということは。
2019/01/04金
1日に引き続き、これまた2005年ごろ(二十歳のとき)同じお店で飲んでいた方がお越しくださった。年末年始は本当に本当、いつもと違うことが起こる。彼曰く「7年ぶり」とのことで、たしかにそれ以外だと小沢健二さんのコンサートでたまたま会ったのが二度くらいあるだけかも。
「7年ぶりだってのに大して驚きもしないで、昨日会ったみたいに挨拶されてビックリした」(意訳)と言われた。それはちょっと意識してやっているかもしれない。寝耳に水くらい突然だったらビックリもするけど、ネット上の交流はあるのだし。できるだけビックリしないようにしております。「当たり前」でいたい。なにかが「特別」になりすぎてしまうと、それ以外のものの「特別さ」がないがしろになる。ディズニーランドに行くことだけが特別なんじゃなくて、近所の喫茶店でも、ひょっとしたらコンビニやスーパーでさえ、特別なのかもしれないのだから。
久しぶりでも、昨日ぶりでも、同じように特別である(そしてかつ、日常でもある)ような場にしておきたいのです。
2019/01/05土
旅先や帰省先から、家に帰るより先に直接お店に来てくださる方がいる。あるいは深夜バスに乗る直前に寄ってくださる方もいる。そういうのって「ゲート空間」って僕は呼んでいる(もともとは友人の麻倉氏が生み出した造語)のだが、そう。そういうゲート空間。ゲートだけど空間。そういう場所ってほんとに大事。門なんだけど空間で、けっこうずっと居てよくて、自分にとって心地の良い場所。こっから帰るとか、こっから出かける、っていうのがやりやすい場所。
そういえば木曜前半担当のk氏は、「家に帰るのがさみしいから夜学を経由して帰る」ということをたまにしているらしい。夜遅くに一人で現れると、ああそういう日かと思う。とても嬉しい使い方。
2019/01/06日
あ、久しぶりだなと思うお客さんは当然いる。口には出さず、心の中で思う。そして考える。人はなぜ「久しぶり」と言うのだろうか。いろいろわけは思いつく。ただそのとき特にそれを言う動機がないなら、まず言わない。言ったらダメだと思っているわけでもない。べつに言う理由もないよなと判断して言わない。
16日から水曜日、新しい人に入ってもらうことにした。その人から「常連さんと初めていらっしゃる方の比率はどのくらいですか?」と聞かれた。それは僕もわからないので、とりあえず「たまに来る、ってくらいの人が多いと思います」とだけ答えた。
へんくつなようだけど「常連」という言葉が僕は好きではない。常に連なる、だぜ? と説明すればなにが嫌なのか想像していただけるだろうか。「つるむ」感じになるのは嫌だし、「コミュニティ」に堕すのも御免なのだ。そういう方向性の素晴らしいお店は巷にたくさんあって、僕だってお世話になっているのですが、夜学バーはまた別のところをめざしたい。
そういえば「常連さんですか?」と問われて「はい、常連です!」と胸を張って答える人は、どんな店でもたぶんまずいない。だいたいは「ええ、っと……まあ、たまに来ます」みたいな答え方をして、周囲から「いつもいるじゃん!」とか突っ込まれる、なんて展開が多いように思う。
夜学のお客に関していえば、「常連」といえそうな人は(僕の感覚では)いない。いたらちょっと困るので、「そんなに毎日来られてもお互いのためになりません」と注意したことさえある。もちろん、週に何度か足を運んでいただく、というのはとても嬉しい。しかし「ほとんどの曜日に、開店から閉店までずっといる」ということになると、「その人の店」になってしまう。そういうことのバランスについて考え、実践するのも、夜学バーというお店の主要コンセプトなのであります。
ただ例外はあって、一時的にはそうでなくてはならない、というタイミングは存在すると思う。それもバランス。精神的に参っていて、この夜学バーというお店に来ていないと、自分がどうなってしまうかわからない。そんな状態だって世の中には存在するだろう。そういう場合は、ぎりぎりのところまで「どうぞ」とむしろ、言い続けなくてはならない。その人が、ひいてはこのお店がさらに健やかになるための道筋に、そういう時期だってあっていい。そう信じるならば、そうすべきはず。
そうなると疑問がわく。「毎日のように来ている」時期はなるほど「常連」のようであるが、その後精神が安定するなどし、「月に1〜2度くるかどうか」という状態になったとき、その人は「常連」と呼ばれるのだろうか。あるいは「年に数回」となったらどうか。「かつての常連」とでも呼ばれるようになるのだろうか。そういうランク制みたいなのは、実に夜学らしくない(というのが、わたくしの夜学観)。
結局のところ、「常連ですか?」や「よくいらっしゃるんですか?」的な問いかけには、「ええと、まあ……へへ。それなりに」くらいの温度で、言葉を濁す以外にないのではないかしら。「それなりに」という、なにも意味しない返答こそが、唯一の矛盾しない返答になる、のでは。
実際、夜学バーには「常連」といえるくらいにいつもいるような人はいないし、かといって初めて来るお客もけして多くはない(数日あれば1人はかならずいる、という感じかな)。再びいらっしゃる率はけっこう高いと思う。で、結果的に「たまに来る」くらいの人がいちばん多くなる。その「たまに」が週に一度か、月に一度か、年に数度かは人それぞれだし、むらもある。ある週に数度きた人が、次の週には一度もこない、ということだってザラにある。その逆もある。結局それは、その人の気分とか環境とか、経済状況とかなんだとかとにかく色々な要素が絡まり合って変わっていくのだ。「この人よくいるな」とある時期に思った人がいたとしても、ちょっと経てば「あの人見ないな」になり、またちょっと経つと「最近またいるな」になる、みたいなことも多いわけで。
だからもう一言でいえば「常連などない」ということだし、「常連は現象であって個人ではない」。そういうふうに夜学では(というか僕は)考えております。
「久しぶり」と言って、その後は「久しぶり」を言わないような期間が続いて、また間があいたら、ふたたび「久しぶり」を言う。これはいったい何のための「久しぶり」なんだろう? ただ事実を確認しあうだけなのだからべつに深く考えることもないんだけど、せっかく夜学なのだから深く考えて「久しぶり」も言いたいのです。「最近来てくんなかったジャナイノよぉ」みたいなニュアンスが、もし伝わってしまったら絶対にヤなのだ。「ありがとう」が伝わるのも妙だなと思う。「あ、どうも」くらいの、意味なき気分が僕にはここちいい。
2019/01/07月
夜学バーに通っているAさんがいて、AさんがBさんに「よかったら(夜学バーに)行ってみたら?」と軽く告げてみたところ、Bさんがほんとうに来店し、そのすぐあとにAさんが来店、「エーッ!」ってお互いびっくりする、なんていう顛末。そのあとでBさんの友人のCさん(Aさんも名は聞き及んでいた)がやってきて、ウワーッて感じで、実に実に僕はそういうのが楽しい。奇跡と偶然ってのはおんなじものなんだよなあ、だから何だって信じられるんだ、なんて迂闊にも(?)考えてしまった。うーんさらに言うのならばその偶然は、人の意志が寄り集まってできあがるんだから、もう凄まじい。
Aさんご帰宅し、BさんCさんになったところで僕はあすかさんに交代。BさんCさん(ふたりとも女性で、あすかさんよりもお若い)ともあすかさんに興味を持っているように見受けられたので、僕は余分だろうと二時間ばかり店を出て、ギャランという喫茶店でちょっとお仕事をして戻った。その「欠席力」はたぶんまあまあ正解で、それなりの意味があったとしんずる。不在、ということを発想できるのは高級とこれまた、しんずる。ある場があれば、まずは自分が「いる」か「いない」かの差があって、どちらの意義にも意識を向けたい。
2019/01/08火
新人のかりんさんにお手伝いいただく。夜学に何度も足を運んでくださるのはすばらしい方ばかりなので、オンザジョブトレーニングがとてもはかどる。ありがたいことです。教えつつ動きを見て、おおむね良き振る舞いだったのでとても安心。「教わったことができる」「教わっていなくても当然するべきことを適切に判断して実行できる」「すべきとまではいえなくてもしたほうがいいことを考えて実行できる」という三つが、基本的にはお仕事の核だと最近思っているのだけども、そのあたり十全に満たしているように思えた。たよりにしています。
2019/01/09水
数時間立ってあすかさんに交代、気になっていたお店に。とてもよかった。店にいることは大好きだし、何は無くとも店の顔である僕はできるだけ店にいるほうがいいとはいえるが、しかし店にばかりいたのでは「夜学」の空気は淀んでしまう。外の空気をいっぱいに吸って、店のなかでそれを出す。店の空気をいっぱいに入れたら、外に出てそれを吐いてくる。そういうふうに空気は循環する。それをお客さんだけに任せていると、いつのまにか新しい空気が入らなくなってくる。つまり同じ息だけが店にたまるようになる。そうなると「夜学」はおしまいである。だからいっぱい外に出ます。僕がお店にいなかったら、「どこかで違った空気を吸って、それをまたここに持ってきてくれるのだろう」と思っていてくださると幸い。もちろん、いないとき(別の人がお店に立っているとき)はまず間違いなく事前に告知しますので、HPのトップやツイッター、Googleカレンダー等をごかくにんください。「j」や「ジャッキー」と書いてあれば僕はいますので。(いなかったら叱ってください。)
2019/01/11金
面白い日だった。ある方と一対一で漬かるほど話して、たぶんお互いにとってものすっごく意義のある時間にできたと思う。そのあとまたべつの方と一対一でじっっっくりと話し、これまで自分に見えていなかったその方のさらなる魅力(柔軟性とか、発想の豊かさとか)がわかったりして、これまたたぶんお互いに充実した時を過ごせたはず。夜学のようにさして流行らないバーだと、一対一でそれなりの長時間お話しするという事態がたまに起こる。それが何回かあると、やっぱりお互いに緊張もほぐれて、慣れてきて、普通ならさらけ出さないような領域を披露しあったりする。それはプライベートなことを話してしまうとかそういうことだけではなくって、「ちょっと突飛な発想」とか、「自分独自の見解」みたいなことが、言えてしまうようになる。こうなってくるともう知性が花開いたような状態で、会話という行為がまるでカウンターの上へ一緒にお城を築き上げていくような、遊戯性を帯びた「知の共同作業」といったような風情になってくる。あとからきたお客(その後ばらばらに5名いらっしゃった)もその速度に乗っかったごとく「お城づくり」に参加してくださって、一夜の営業がまるでひとつながりの音楽のようだった。断然よくあることなのです。
2019/01/12土
昨日よりさらに長く、一対一で5時間ちかく話し続けて22時をまわった。これまた濃密な時間だったが、そこからもまたよかった。ひとり増え、ひとり減り、23時半をすぎてふたり増え、24時半を目前にまたひとり増えた。その最後のお客は初めてお越しになる方で、おそらくお互いにとって邂逅といえる良き出会いだったと思うし、そうであることを願ってやまない。遠方からきた若き人。上野周辺をRPGして(※RPGする:見知らぬ町を歩き回り、酒場などで情報を集めながら己にとってよき場所を求め訪ねること)、3軒目にたどり着いたのが夜学だったらしい。僕もうれしくなってしまって、25時をまわってもしばらくお話させてもらった。「町をたずねること」「お店に行くこと」という話題を軸に、いろいろと。こういう人と出会うことや、こういう人と再会することが、僕にとってお店を開ける理由の大きなひとつ。また会いましょう、絶対に。
2019/01/13日
最初は「人に連れられてきた」人が、一人でおこしになるようになると、うれしい。たまにいっしょにきたりするのも趣がある。一人でいるときと、その相手といるときとの感じが違うのも面白い。
2019/01/15火
「あのジャーナル(このページのこと)とかいうの、いつまでやるの?」と素朴に聞かれた。どうしよう。いちおう秘境なので、ずっとやる意味もあんまりない。ある程度たまったらやめるかもしれない。もっと簡素に書くようにするかもしれない。3月で半年になるので、一区切りつけようか。たぶんあまり多くはない読者のみなさま、ご意見ください。
このページの目論見は、「興味あるけど二の足を踏んでいる」まだ見ぬ未来のお客に向けて、「あなたのためのお店ですよ」ということを伝えること。こんなお店です、店主はこんな文章を書く人です、という表明。それはある程度の量がたまれば達成できる気もするし、でも「最新」ということが大事な気もするし。
2019/01/18金
めずらしくお客の多い金曜日。先週は6人、次週は4人。ふだんは金曜日だってそんなもんだけど、多い時は多い。といって入れ替わり立ち替わり8時間でのべ15人、それでもここ夜学バーとしては半年に一度くらい[要出典]の盛況。「週末は混みますか」とたまに聞かれるけど「振れ幅が大きい」としかいえない。数人ってことも多いし、平日のほうがずっと人が入る週もこれまた多い。夜学バーはほんとに、普通の飲食店と動きかたがだいぶ違うように思います。
だから「混みそう」と言って週末を避けるのはナンセンスで、「どの日が混むか」というのは競馬予想くらい難しい。なるべく空いている時に来たいという人は、悪天候の日に来ましょう。つんく先生に「台風の日は這ってでもキャバクラへ行け」という格言があるとお客さんに教わったのですが、まさに。「せっかく行ったのに人がいないとつまんないな」という人は、もういつでもおいでください。こればっかりは読めません。
ところで「のべ」というのは何かというと、一度退店してまた戻ってきた人がいるということ。そういうの大歓迎です。木戸銭(チャージ)は原則として1日1回なので、再来店の際はいただいておりません。従業員がまちがえていたらこのページをみせてくださいませ。
2019/01/19土
浅羽先生の夜の会。その後は客こず。
今後は夜の催事を一掃し、すべて昼にする予定。夜せっかく来てもらったのに入れないのは忍びないので……。2月からは年中無休(原則)かつ、17時(たまに18時とか)以降はかならず通常営業、というふうになると思います。
2019/01/20日 後半あすか店長
昼、『鈴木先生』精読会。17時すぎからあすか店長に交代。しばらくいて退出。
この精読会はとても面白いので、もうちょっと人がきてくれたらいいなあ。遠慮している方は、遠慮しないで、ぜひぜひ。
2019/01/22火
某地でバーを経営する若者(大学生!)から、「L字カウンターのお店って夜学バーが初めてなんですよ、みんなでお話する感じが素敵ですね。」と言われた。おー、やっぱりバーらしいバーってのはI字の一本木バーが多いんだろうなあ。(もちろん一本木蛮先生とのダジャレです。)
一直線のカウンターにも良いところはたくさんある。どっちに向いているか、というのもお店をやっている人によってそれぞれ。僕はたぶんL字(理想はV字)が向いている。夜学バーのテナントも初めて見学にきたとき、「このカウンターの形なら」と思ったのをよく覚えている。
そのあたりの事情については「TOP-STAFF-ジャッキー-場の本(PDF)」という流れを辿ればこのHP内で長い長い文章が読めます。夜学バーを作る前の僕の考え方が記された歴史書です。よろしければどうぞ。
2019/01/23水 かりん店長、深夜(庚申につき朝まで)僕
まだ二度目のかりん氏。本当はつきっきりでOJTしたほうがいいのだが、もう一人で大丈夫だろうと甘く見てちょっと遅刻して(20時半ごろ)行ったらけっこうお客さんがいて大変そうだった。申し訳ないです。でも上手にこなしていた。あとはお酒を覚えるだけでしょう。
肝心の庚申は僕含め3人で徹夜。深く話し込めた。60日に一度なので次回は3月24日(日)、この日は朝までやります。次の日げつようだから人くるか心配だけど、日程をずらしたら意味がないのでもちろんやります!
2019/01/25金
ゆったりとした金曜日。近所に「道」というバーがあるのだが、そこのお姉さんがたびたびこのお店をお客に紹介してくれているようで、「道から来ました」という方がたまにいらっしゃる。なんとも嬉しい。僕もよく飲みにいくのですが、その時に隣り合った方にも「この人、夜学バーってお店を近くでやってて」と言ってくれるので、それで「こないだ道でお会いした者です」というふうに来てくださる方もいる。そういうふうに他のお店と仲良くしていくのは楽しいし、うれしい。荒木町の「高品質珈琲と名曲 私の隠れ家」というお店とも、そういうような関係がある。(僕は事あるごとに紹介しているが、混みすぎたら自分が困るというパラドックス。)
一度、「道でお会いした者です」的なのをほかのお客さんが聞いて「えっ、ジャッキーさん道端でお客をつかまえてるんですか?」と思われてしまった、という笑い話。
よくきていただいている方と二人きりでしばらく(2時間くらい?)、その人の好きな音楽などかけながらゆったりとお話しした。紅茶の似合ういい時間。(紅茶は飲んでいなかった。)
いろんなふうの時間があってお店は楽しい。
2019/01/26土
昼は小沢健二さんの『さよならなんて云えないよ』という曲の歌詞について話す会。人気の曲だからか、ちょうどよく人がきて盛り上がった(ありがたいです)。この人の歌詞はほんとうにいろいろと、考えることが尽きない。「青い空が輝く 太陽と海のあいだ」という歌詞ひとつでも、平面的に見るか立体的に見るか、その他さまざま着眼点は無数。
17時から通常営業に切り替え。たくさんのお客にきていただいた。「切り替え」といっても入れ替え制でなく残る人は残るので、昼の余韻を残しつつ少しずつ夜になっていく感じ。徐々に日がくれる。
老いも若きも。やはり若い人、ことに20代前半くらいの率が(こういう業態にしては、かなり)高いが、40〜70代の層も少しずつ盤石になっていく感がある。10代も増えている。男女のバランスもいい。ここんとこ良好、いろいろ。
と、いうような「客層」の話もすでに書いていそうな。どうしても繰り返しになってしまうけど、その都度ほんの少しずつ変わっている、はず。それも「日報」の醍醐味なのかも。
2019/01/27日
18時くらいに昼の会がひと段落し、数時間音沙汰なし。22時近くなってちらほら現れ、計5名いらっしゃった。そういう日もある。面白い。
小山田圭吾さんのお誕生日だったので23時過ぎくらいから以下の曲を(こっそり)かけていた。『あなたがいるなら』『Sleep Warm』『Brazil』『STAR FRUITS SURF RIDER』『Rock/96』『太陽は僕の敵』『奈落のクイズマスター』『偶然のナイフ・エッジ・カレス』『FRIENDS AGAIN』『(I would want to)GO!』……(つづく)。
本当は小山田さん作曲でまとめたかったけど、そこまですることもないかと以上のような。(お客さんが「あ、奈落のクイズマスター」と言ったのを僕が聞き間違えて(?)「のらくろクイズマスター?」と返した、想い出。
2019/01/28月
小津氏にかわり急遽。ふつうの月曜は久しぶりなので、月にちなんだ曲を(こっそり)かけていた。
早い時間に来がちな人と、遅い時間に来がちな人。時間がとくに決まっていない人。いろいろいて面白い。これを書いているのは某日の20時18分で、開店から3時間以上経っていますが誰もきません。
2019/01/29火
営業中に橋本治さんの訃報に接し、やや狼狽。詳しくは僕の個人HPの日記をご覧くださいませ。
2019/01/30水 かりん店長
かりん氏のサポート(というかOJT)で来たが、ほぼずっと客席にいた。もう一人前ですね。
2019/01/31木 j→sue店長
k氏欠席のためsue氏到着まで立つ。お客ちゃんといらっしゃって甲斐あり。交代してから、湯島近辺で四軒ほど飲み歩く。初めてのお店にえいやと入ったら、素晴らしい世界が広がっていた。
そこは木曜の夜しか開けていないそうで、何十回もその前を通ったことがあったのに気がつかなかった。聞けば同じ趣味を持つ仲間の集まりで、「そうでない」人は一人もいなかった。それなのに閉鎖性がいっさいない。感動的なほど。
外観からして、お店なのかそうでないのかよくわからない。一応のれんは降りているし、店名らしきものの書かれたフダもあった。でも中を覗くと、一つのテーブルをみんなで囲んで、缶ビールなんかを飲んでいる。きわめて内輪っぽい空間! 僕みたいなもんが入っていいものか。知らない人に来られたら迷惑なんじゃないだろうか。かなり逡巡したが、「ままよ」と「えいや」で扉を開けて、「ここは、飲み屋さんでしょうか?」と我ながらあほらしい聞き方をしてしまった。
すると、店員らしきふたりと、3人のお客さんがほぼ同時にこっちを見て、即座に口を揃えて、「飲み屋で〜す」と、返答してくれたのだった。
こういう小ぢんまりとした店に入って、これほどのウェルカム感を浴びることはそうそうない。そういえば前橋でお店をやっているある方が言っていた。「東京は、誰でも受け入れる感覚があるよね。地方だとそうはいかない。知らない人が来たらまず警戒する」と。ああ、まさにこれが東京ってやつなんだな!
それで美味しいお酒と、おつまみと、あつき歓待をいただいて、ホクホクと次の店に向かったのであった。(そして最終的には夜学に帰った。)かならずまた行きます。
かならずしも、すべての店がこのくらいのウェルカム度を持っているべきというわけでもない。じっさい夜学バーは「平熱」。無条件に受け入れもしなければ、もちろん拒みもしない。こっちとむこうのありかた次第で、すべては変わる。だけど世の中にああいうお店があるというのは希望だし、タイミングによっては夜学バーだって、ひょっとしたらああなる瞬間があるのかもしれない。そういう奇跡(?)も見てみたい。
2019/02/01金
たまたま若い女性が3人になった瞬間があって、嵐と関ジャニ∞の話になった。そういうタイミングも、非常に面白い。意思は言葉を変え、言葉は店を変えていく。
また「客層」みたいな話になってしまうが、最近女性客が相対的に増えてきた気がする。今日は6/7が女の人だった。この湯島という街は(とりわけ、この上野寄りのエリアは)、基本的には男性が飲む町であろう、と思う。夜中になると治安は多少荒れてくる(やさしい表現)し、ごみごみしていて、オシャレな感じはしない。この小さな路地の三階の店が、果たして安全なところかどうか。というのは、やはり時間をかけて慎重に判断していただくべきことなのだ。もうすぐ開店から2年経つので、そろそろそういう意味で「安定」してきたのかもしれない。簡単に言葉にしてしまえば、「2年もやってんだから、まあ安全なんだろう」という感覚が、そういう言葉にはなってなくても、意識にはほとんどのぼらなくても、なんか全体にこう、雰囲気として漂ってるのかも。
実際、「1年くらい前から存在は知っていたんですけど(今日初めて来ました)」というようなことを言われることは多いし、1年目に一度きて、しばらく(数ヶ月〜1年)おいてまたきて、それから安定して通ってくださるようになる、なんてケースもいくらか。「時間」というのは、そういうふうにも作用する。継続は力と言うけど、本当だ。(でも継続だけが力でもない。)
2019/02/03日
そういえば夜学バーを卒論のテーマにした人は無事提出を済ませ、卒業を待つばかりのようです。お店に納品するはずの卒論は、「今のままでは満足がいかないので」という理由で、書き直してから納めるそうな。
そして今また、「夜学バーを卒論の材料の一部にしようと考えている」人が登場。はてどうなることか。取材や協力は惜しまないので、卒論のテーマや材料に困ったらぜひご利用ください。
2019/02/05火
強調しておきますが、こんなことは珍しい。従業員が客として4人もきた。あんまり身内ばっかりお店にいるのはダサいので、みんなそれなりの頻度でしか飲みには来ないけど、考えてみればみんなもともとはお客さんなんだから、こういうこともありうるし、十分にあっていい。みんなこのお店が好きでいてくれて、だからこそ薄給で手伝ってくれているのだから。本当にもう心から感謝しております。個人的には、ちょっと嬉しかった。
2019/02/07木 j→sue店長
k氏休養のためj入るも、21時ごろまでお客なし。sue氏が店に到着した瞬間に数名が来店。シードルいただいてから浅草まで飲みに出た。
2019/02/09土
昼間、仲の良い人に立ってもらった。夕方から通常営業。合算して昨日の10倍以上の来客があった。夜はちょうど満席になるくらい(といって最大8人ていど)。
それなりに人が多くなると、小さな店の中でも2つか3つの「場」に分かれがちである。その中に1人でも声の大きな人がいると、その「場」の人たちも自然声が大きめになる。すると店全体に響き渡り、ほかの「場」の人たちも小さな声では通らなくなるので、みんなが声を大きくせざるを得ない。で、「うるさい店」になってしまう。僕はこういうのが非常に嫌なので、おりを見て「夜も更けてまいりましたのでちょっと小さな声で」などとお願いをする。最初に大きめの声を出しはじめた人さえそれをやめれば、全体も静まる。たいていの人は周囲の環境に合わせて、声量を変えているだけだから。
これ実は、学校と同じである。なぜ授業中の教室は騒々しくなるのか。その要因として最大のものは、「誰か1人(ないし2〜3人)が大きめの声でしゃべっている」なのだ。
授業中に友達と喋りたい。それは理解できる。あれほど楽しいことはない。だから僕は教員をやっていた頃でも、「しゃべるな」と言ったことはたぶん一度もない。べつに喋ってくれてもいい。小声であればさして困らない。それで僕は(思えば23歳の時すでに)「お話がしたくなったら、声帯をふるわせずにしゃべりなさい」と告げていた。これは本音である。自分(たち)の欲求も満たしつつ、教員および周囲の生徒たちになるべく負荷をかけないためには、「ひそひそ話す」しかないのである。
しかし、それができない人がいる。声というのは原則として、大きければ大きいほど出していて気持ちがいいものである。だから「気持ちよくなりたい」と専心的に願う人間は、大きな声を出す。1人でも大きな声の人間がいれば、小さな声が通りにくくなるし、「なんで私たちだけが小さな声で話さなければならないのか?」「私たちだって気持ちよくなりたい!」という不公平感が募り、みんなが大きな声を出すようになる。そうなるとさらに声は通りにくくなり、応じて声量はどんどん大きくなっていく。結果、教室は騒々しくなるのであった。
「いいかね、大きな声を出さないほうがいいところで、大きな声を出してしまうというのは、結果を顧みず肉体的な快楽に身を委ねることなんであって……」なんてギリギリの注意をすることもあったが、晩年(辞める直前)はそもそもそのような形で教室が騒々しくなることもなかった。いちばんいいのはそれだ。教員としての技術の向上と、生徒との良好な関係と雰囲気づくり。ようやくうまくできるようになったから、辞めることもできた。
お店だって似たようなもの、とつくづく思う。技術と関係と雰囲気。
少し騒がしいな、と思ったら、BGMや照明を工夫してみる。何らかの具体的介入で流れを動かしてみる。それでもダメなら、はっきり伝える。
もちろん、べつにその場では誰も不快には感じていないかもしれない。みんなその喧騒の中に揺られ、むしろ気持ち良くなっている可能性すらある。ただ、今その扉を開けて、知らない人が入ってきたとしたら?
その誰かは見知らぬ誰かで、どんな人かはわからない。その喧騒をその人がどう思うか、わからない。
忍者が片膝と片手をついてしゃがみこむのは、いつでもどっちにでも飛び上がれるためだという。「店」のように開け放たれた場もそのように、緊張感と柔軟性をもち、来る無限の可能性に向けて常にひらかれ続けていなければならない。と、いうように僕は思う。
「柔軟に穏やかに盛り上がる」ということは、もちろんできる。
2019/02/12火
たばこは外で吸う、という習わしが定着しつつある。2000キロの遠くからお客がきた。お客さんから仕事(単行本の帯文を考える)を依頼された。
店は生きている。新潟県の上越市に「シティーライト」というすばらしい喫茶店がある。85歳くらいのママが今は一人でやっている。30年以上続いているこのお店が、なんと去年から禁煙になったという。時代の流れで仕方なく、というのではない。ある時ママが思い立ってその日から禁煙にしたそうだ。
店は動き続ける。躍動する流動体。淀んだらいつでもここは去ります。
2019/02/15金
25時に来客。近所のお店から流れてきたそうな。「夜学」という言葉が気になって、とのこと。
湯島には夜のお店がたくさんあって、「近所のお店」も無数にある。ただどうも夜学バーは、テキーラをどんどこ飲んだり、折にふれシャンパンをパーンする感じではないのでたぶん水が合わず、近所づきあいもあまりない。実際仲の良いお店はあるが、ほんとにほんのすこしである。
「そういうお店」をちょっとずつでも増やしていきたい。もちろんお店に限らない。「場」であればいい。焦ってどっからでも人を呼ぶより、そういうとこから真水だけをちょろちょろと引いてきたい。
また、「知識」以上に「知性」を大切にしていたい。
たくさんものを知っていて、それを一秒間にどれだけ連射できるか、ということよりも、ちょっとのことを的確にバーンと撃てる、というほうがまだしもカッコいい。しかしそもそも「撃つ」時点であまりうまくない。知性はなにに宿るか、という問題。そういうことをずっと模索する店でありたい。
2019/02/16土
昼に浅羽先生の会があると18時くらいまでは混んでいることが多い。本日お一人、17時すぎにお越しになった方が中を覗いてあえなくお帰りに。まことに申し訳ないです。またきてください。混んでてもスッと入っちゃえばそのぶんトコロテンするので、ご遠慮なく。
18時にばーっとみなお帰りになり、それからばらばらと計7名の来客。相変わらずいろんなところからいろんな方が来てくださる。ありがたい。新しく通ってくださる方も多く、「お客さん」の総数は増えていく。最近あまり行ってないな、という方々も、たまに来るといろいろ空気が新鮮になっているはずですので、ちょこちょこ覗いてくださると幸い。
2019/02/17日
昼は『鈴木先生』精読会。今回は終了後、作者の武富健治先生がおいでになった。「会のつづき」という雰囲気ではなく、ひとりのお客として夜からきた方々とも溶けあってくださった。決して「中心」になろうとせず、場をちゃんと見てくださるのが流石です。
素晴らしい場面や邂逅もあった一方、バランスの良くなかった瞬間も多少はあって、うーん、手腕の問われる夜だったなあ。勉強になりました。
2019/02/18月 小津店長
小津氏はこの店に立ってもらうようになって1年3ヶ月くらいになるそうだけど、まだこなれない部分が多く、ちと手を出すことに。こなれてもらえるよう僕もがんばります。
2019/02/19火
L字カウンターのみの夜学バーでは「並び」は大切である。複数の人が一列に並べば、誰がどの位置にいるか、誰のとなりに誰がいるか、といったことによっていろいろ事情は変わる。
席順ですべてが決まる、という話ではもちろんない。席順によって、考えることが変わってくる、という話。
カウンター内の従業員はもちろん頭をフル回転させて「考える」のだが、席につくお客さんたちも「考える」べし、というのが、夜学バーの信念というかコンセプトの一つ。といってべつに、小難しい話ではありません。右隣の人が左隣の人に声をかけたら、真ん中にいる自分はいったんちょっとうしろに身を引いてみて、まず様子をみる。とか。そういうくらいのこと。
そういうことは普通の人は自然に考えている。まったく考えない人もいる。しかし、基本的にはこのお店に何度かきていると、自然とそういうふうに考えるようになる。みんなができるだけ心地よくいられるようにするには、自分はどうすればいいだろうか、ということを、たいていの人間は当たり前に考えているはずなので、おのずとそうなる。
そういう能力のある人にきてほしい、というばかりではない。そういう能力がないので、ぜひとも身につけたいと思う人にもきてほしい。ただ、そういう能力をいっさい意識したくないという人だと、ちょっと困る。
「みんなができるだけ心地よくいられるようにするには、自分はどうすればいいだろうか」というのは、夜学バーの芯にある態度である。その「みんな」には「自分」が必ず含まれる。だが「みんな」というのが「いまその部屋の中にいる全員」をみな含むかどうかは、定かでない。しかし「いまその部屋の中にはいない人」がかなりたくさん含まれているということは、疑いがない。
「みんな」とはなんだろうか? とは、常に考える。考えて、それが完全にわかることはない。しかし、そこに「自分」が含まれていることだけは確かだ。単純に考えれば、「『みんな』の中に自分が含まれているのだと意識している人たち」のことを、「みんな」と言うのかもしれない。だが、誰がそれを意識しているのかは、わからない。少なくとも他人には。
自分がその「みんな」に含まれていることだけは確かで、ほかの人たちも「みんな」なのかもしれない。いまこの場所にいない人だって、「みんな」といえるのかもしれない。でも、「みんな」に含まれなさそうな人もいるような気がする。そういう面倒くさいことをいちいち考えるのが、実は生きるってことなんじゃないでしょうか。(急に話がでかい。)
この夜学バーというのは、そのミニチュアだと僕は考えております。話が長く、固くなってしまった。僕はきわめて陽気な人です! パ〜。
2019/02/23土
僕はきわめて陽気な人なのです……。この日は話の流れで「いや〜ぼく占い師なんですよ〜」という大ウソをつき、勢いで「タモット占い」というのをその場で(瞬時に)考案、披露してしまいました。白紙のカード(メモ用に使っているやつ)を適当に並べて適当なことを言うだけの芸。途中で「ではこのカードの数字を覚えてください」とかを挟んで、あー面白かった〜。
なんてことを書きますと、「ウワ……キツ……」「そういうノリの店なんスか……」「耐えられる自信がない……」「わけのわからないオリ芸(オリジナル芸)を押し付けてくる店主とか最悪……」といった感想を、まともな方でしたら持たれるでしょう。僕ならそう思います。でも、でも。それは「そういうことを許容してくれる(はずの)お客さんしかいない時に」「その場ではそれなりに面白い(はずの)ことを」「いつでもやめられるように」「きわめて短い時間のなかで」やった、というだけなのです。そこでギギッとドアを開けて誰かが入ってきたなら、僕は即座にタモ占を中断し何事もなかったように「こんばんは〜」とでも言ったでしょう。さして笑顔でもなく、フラットに。
そのあとでいらっしゃったお客からも「しらふなんですか?」と言われたのですが、僕は多くの場合お店ではしらふです。たまに飲んでます。この日は一滴も飲んでおりませんでした。といってべつに僕はハイテンションな人でもないのです。場の様子に応じてハイにもローにもフラットにもなるものだから、それが不思議で「なんだ?」となるのかもしれません。自分で言うのもなんですが自在なほうだと思います。末っ子のよくする(?)「スッと色を変える」が得意なのかもしれません。
夏目漱石の『こころ』の有名な一節に「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです」というのがありますが、店に立つとき僕はずっとこれをしているような気がします。この文は「私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向ったのです」と続きます。そのくらいできたら理想だなと思いながら、お店をやっております。Kはもちろん、カウンターのK!(Cやがな)
2019/02/24日〜04/10水
サボっていました。ダイジェストでも語り尽くせそうにないので、こうなったら年表だ!©︎武士沢レシーブ……いや、ダイジェストで。
<02/24日>浅羽先生の星ゼミ→あすか店長に交代
<02/25月>小津店長
<02/26火>
「(夜学バーとコンセプトがほんの少し隣接するような)お店を開きたい(ので見にきた)」という方、「自著がもうすぐ出ます」という報告をしてくださった方、
<02/27水>かりん店長
<02/28木>K氏旅行につきj→sue店長、この日の記録(なぜか)なし
<03/01金>
<03/02土>j四国(等)旅行につきあすか店長
<03/03日>j四国(等)旅行につきかりん店長
<03/04月>小津店長
<03/05火>j四国(等)旅行につきあすか店長
<03/06水>かりん氏多忙、j四国(等)旅行につき小津店長
<03/07木>K→sue店長
うーん、やはりいちど崩れたリズムはとりもどせない。とりあえず直近のことを。
現在
5月14日(火)の深夜です。ゴールデンウィークは従業員さまがたのおかげもあって休まず営業いたしました。4月末から遠方のかたが多かったです。休暇やイベントごとのついででやってきてくださったかたがたが。実家(名古屋)近くのよく通っていたバー(3月に閉業)のマスターとか、岐阜の山の上からやってきた旧友、徳島のカフェ(?)でとなりあったハワイ出身のアメリカ人のかた、仙台のバーでとなりあった秋田在住のかた。あるいは、コミティア(同人誌即売会)でたまたま通りがかり本を買ってくださったかたがその日の夜に来てくださったり、チラシをとどけにいったカフェ(?)の店員さんがその夜にきてくださったり。いわゆる「フットワークが軽い」人たちとたくさん出会うことができました。ほかにもはじめてのかた、たくさんおこしいただけました。みなさまよくぞ、あのような重たい扉を開けてくださるものです。ありがたい。すばらしい。うれしいです。(あなたも、ぜひ。)
上にコミティアと書きましたが、ここしばらく忙しかった理由の一つは本を作っていたからです。まだ作っています。5月中か、6月頭には販売できる予定です。僕(j)の書いた「全年齢むけ児童小説」というもので、『小学校には、バーくらいある』というタイトルです。小学校のなかにあるバーに、小学六年生の女の子がかようようになる、という筋です。よかったら、お買い求めください。196ページで予価1000円。メルカリばりに値段交渉にはおうじます。ひとまず夜学バーで売り、のち、ゆかり深き「珈琲と本 あひる社」という場所にも置かせてもらいます。通販もする予定でますが、こちらはちょっと遅れるかも。ほかにも委託先考え中です。どこかよさそうなところあったらおしえてくださいませ。
6月はふるわなかった。相対的には土日がにぎわった。平日は静か。金曜日も閑散としていて、四週で客数は累計15人くらいだったと思う。1人しか来ない日もあった。かと思えばある雨の日曜日13人もやってきたり、昨日(29日土曜日)も雨っぽかったわりに11人。多いほうである。さて今日はどうなるかしら。
もちろん、13人とか11人とかいっても一度にそんな入るわけではなくて、7〜8時間のなかで組み合わせは変わっていく。1人しかいないタイミングもあれば6人くらいいるタイミングもある。多くても8人くらい。
夜学バーは、きたお客を「満席です」と断ることはまずない。10人いるところに10人の団体客がくれば断るかもしれないが、5人いるところに5人きたならば入れてしまうし、10人いるところに3人くらいなら、どうにか入ってもらう。それで何が起こるか、というのも、夜学の味わいなのだ。
上記は、「夜学バーは土日混む」という話ではない。ひごろ日曜などは数名でのんびりすることが多い。土曜だって誰もこないような日はある。ただ、令和元年の6月に限っていえば、相対的に土日がにぎわっていた、といえるだけである。来月にはまったく、わからない。
本当に、混むタイミングもわからないし、すくタイミングもわからない。水商売というのは、むずかしい。ギャンブルみたいなもの。お店にとっても、お客にとっても。
バーというバーで、これほど金曜に人が増えない(他の平日と差がない)店はないのではないか? と思うんだけど、それも特にここ数ヶ月から半年の感触であって、全体的にみればやはり、金曜はどちらかというと客が多めなのはまちがいない。(ただ、極端に混んでいたりうるさかったりすることがあるとしたらそれは事件で、その確率は他の曜日とそうは変わらないはず。)
金曜だからとて混むともかぎらないし、夜学の金曜だからとてすいているとも限らない。けっきょく、わからないのです。「どんな感じだろう」と思いながら、いつでもお越しください。
(わからないから好きになる、は世の基本ですよね。)
昨日はバラエティ豊かだった。初来店らしき人や、大学生になった教え子たち、高校生、こんど近所にオープンするお店の人、などなど。「いまの職場が今日で最後なので帰り道にきました」とか「ネーポンが入ったと聞いて」とか「いつも日曜日にくるのでたまには土曜日に」とか、自分なりの特別さをかかえてやってきてくださったり。来店する気分はまちまち。みんなそれぞれ、「今日は夜学だ」の理由を持っているらしい。多かれ少なかれ、意識的であれ無意識であれ。
で、そういう人たちが、なんかしらの交流をして帰る。なんかしらを持って帰る。それが「学び」であることを願い、信じて、人事を尽くす場が、夜学バー。
最近、近所の「がまぐちや」の閉店にあたり、食器などをたくさんもらったので、喫茶店っぽいメニューを増やしました。コーヒーはもちろん、ソーダ水、クリームソーダ、レモンスカッシュ、コーラ、そして、ネーポン。その他。お酒を入れてもおいしいです。とりあえず僕(j)の日は出していますので、よろしければ。
本は、遅れています。もうしばしお待ちくださいませ。
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