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夜学バー
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ここでは「構造」と「システム」と「考え方」について書きます。
夜学バーはいわゆる「雑居ビル」と呼ばれる、お店のテナントが複数入居している建物の一室にあります。
Lの字のかたちをしたカウンターの内部に従業員がおり、外側の椅子にお客が座ります。8~9席、混んでくれば補助椅子が出ることもありますが、年に一度あるかないか。テーブル席等はありません。
「L字」を囲うようにお客、その対面に従業員。おおまかには「車座」ないし「円卓」のようになっています。すべての人の目からすべての人の顔が見える構造。
従業員とそれぞれのお客との距離はほぼ等しい(扇形のイメージ)ですが、従業員は狭いカウンター内を小さく動き、常に距離感の微調整と、空間のバランスづくりに努めます。
窓は廊下側になく、お店の外から内部は見えません。通気のために扉を少し開けていることもありますが、それもほんの少し。ご来店の際は重い取っ手を引いて入室いただきます。
好きなお席についてください。端っこでも、真ん中でも。
原則として従業員から指定はしませんが、直観で「ここに」と言う場合もあります。2名以上の場合は端っこにお願いすることが多いです。
まずおしぼりがやってきます。メニューはどこかにあります。目にうつるものから適当にご注文いただいても、「ウーロン茶」「ハイボール」「ジントニック」など、ありそうなものをとりあえず言ってみてもかまいません。
バーには「チャージ」という、いわゆる席料が発生することがあります。夜学バーではこれを「木戸銭」と呼びます。これが1000円で、ドリンク代などが加算されていきます。すべて税込表示。退店時の支払いです。現金をご用意ください。
ドリンクの値段は安めに設定しているつもりです。500円から。高くすると、たくさん飲む人とあんまり飲まない人の支払額の差が大きくなりやすいのです。
3杯飲む人と1杯だけ飲む人とで考えます。木戸銭0円でドリンク1000円とすると3000:1000ですが、木戸銭1000円でドリンク500円だと2500:1500。差が2000円から1000円に縮まりますね。
ベースとしては、お客ごとの支払額の差は小さくしておきたい。もちろん少なく払う人がいてもいいし、多く払う人がいてもいい(大歓迎!)のですが、後者に頼るデザイン(設計)を基本にはしたくないのです。「たくさんお金を払う人が偉い」ということになると、序列が生まれ、要らぬ気を遣うようになりかねず、夜学バー是たる「対等」は実現しにくくなります。
木戸銭とドリンク代のバランスは難しく、狙う客層やつくりたい雰囲気によるでしょう。夜学バーははじめから、お客は長く滞在するものという前提に立っています。実際5時間、6時間ということはざらです。しかし飲むものやそのペース、支払える額というのは人それぞれ。するとやはり「最低でも1500円」というのが経営的には非常にありがたくなってきます。ドリンクの売上で勝負しようとすると、お店がせわしなくなり、「学び」に集中する余力がなくなってしまう危惧もあります。
夜学バーの主たる商品は「ドリンク」ではなく、まして「お酒」ではなく、「場」そのもの。だから「木戸銭(入場料)」と呼んでいるのかもしれません。
とはいえ僕も趣味人みたいなところがあって、ドリンクはできる限りおいしくて上質なものになるよう尽力しておりますし、よいお酒、具体的にはワンショット数千円くらいのウィスキーとか、めずらしいスピリッツ(ライシージャとか)なども揃えております。ショートカクテルもそれなりに作りますしこだわったオリジナル商品もあります。あまりこのあたり強調しすぎるとお店の輪郭がブレて見えそうなので控えめに主張しておきます。また「マスターも一杯どうっすか?」的な、キャストドリンク的なものもありがたく頂いております。たいていはその方が飲んでいるのと同じものか、近い価格帯のものから選んで適当に飲みます。
結果、1000円くらいの方もいれば10000円を超える方もいて、それが夜学バーなりの「バランス」です。いろんな人がいて、いろんな時があります。「飲めば飲むほど偉い」という事態に意図せずなってしまうのは避けていますが、「このお店が好きだからたくさんお金を渡したい」という人の気持ち(とお金)は、無限に受け取る覚悟があります。ください。
ちなみに「次、何をめしあがりますか?」「なにかお作りしますか?」というようなことは言わないようにしています。実際一度も言ったことがないはず。(よっぽどのことがあれば別の表現で何か言うかもしれませんが。)これにもいろんな想いがありますが、また別のところで。
「最低でも1500円」というのを「高い」と感じる方もいらっしゃるでしょう。そこで「経済的に豊かでなく、ここでの学びに真摯な者」を奨学生として、木戸銭を半額の500円にする、という制度があります。我こそはと思う人はお申し出ください。認定されると次回以降も半額ですが、失念することもありますので会計がおかしいと思ったら「奨学生です」と一言お願いします。また経済的に安定してきたらその旨ご報告ください。
高校生等以下については、木戸銭を無料にすることがあります。ドリンク代だけくださいませ。さらにそのうち中学生以下で、自由に使えるお金があんまりないという方はご相談ください。経済状況等に合わせて検討いたします。
ケースとしては、月のおこづかいが1500円という中学2年生は500円のソフトドリンクを200円にしておりました。3年生になっておこづかいが3000円に上がったので、300円にしました。一方で、ある小学4年生は500円。年齢や学年のみで決めるわけではありません。適切に、柔軟にやっております。
夜学バーには未成年もよくいらっしゃいますし、お客の3~4割はノンアルコールのみ召し上がってお帰りになります。お酒はオプション(選択できるもの)です。コーヒーや煎茶、甘酒もありますし、ミルクセーキ、クリームソーダ、ソーダ水、レモンスカッシュといった喫茶店ぽいメニュー、あるいはネーポンという珍しい果汁ジュースが非常に人気です。
反対に、これらにお酒を足してカクテル化することもできます。お申しつけください。小さいお店なので自由がききます。
「酒に飲まれる」という言葉があります。アルコールによって理性を失うとか自律できなくなるという意味です。
お酒を飲もうが飲むまいが、理性を持って自律しつづけることが夜学バーという場を成立させる必須要件であり、それこそが「学び」の生まれる土壌と考えます。
アルコールを摂取すれば多かれ少なかれ脳や神経に影響し、鈍くなったり麻痺したりします。その状態で理性なり知性をキープする、いや、むしろ鋭くさせる練習の場でもありたく思います。
これは完全に僕(店主)の「感想」なのですが、アルコールを摂取した状態というのは、老化に近いのではないか?と。一般に年を重ねれば脳や神経は弱り、理性や知性も衰えていくと考えられていると思います。具体的には、たとえば「同時に頭に思い浮かべることのできるチャンク(情報の集合)が減る」と中井久夫先生はたしか表現しておられました。
ただ、「同時に扱える数が減る」ということが、イコール「知性的でない」ということではないはず。複雑な思考を総合的な視点から行うことは難しくなっても、一本道の思考をずんずん深めていくことには適している可能性はあります。余計なことが思い浮かびにくいぶん、鋭さは増していく。そんな実感は自分にもあります。ふだんなら思いつかないようなアイディアがひらめいたりも。
実際、先ほどの中井久夫先生は、年をとって論文を書くことは難しくなったが、エッセイのような文章はむしろ書けるようになった、というようなことを記しておりました。年をとっていろんなことが「できなくなる」のは事実でしょうが、「できることが変わってくる」と捉えてもいいのではないか。
重要なのは、そうなっていることの自覚とコントロール。酔っぱらっているのに「酔ってないですよ」とうそぶいて平常時の振る舞いを無理にしようとしてもボロが出るだけ。酔っている時には酔っている時なりの、適した脳と身体の動かし方というものがきっとあって、それをうまくコントロールしていけば、人生全体のパフォーマンスが向上する可能性すらある、と僕は思います。
一般的な言葉でいえば「きれいな飲み方」というやつなのですが、これが実は「老化の先取り練習」と言えるのではないか、というのが飲酒についての僕の「感想」です。
こう書いている自分はまだ30代ですが、できるだけ早くから「脳と身体のコントロール」をよく練習しておかないと、これからどんどん年をとっていった先に辛くなるだろうと、こんなことを考えているわけです。そなえよつねに。
飲酒と老化の類推がどれだけ妥当かはともかく、老いているのに若い時と同じことをしようとしてもうまくいかないのは確かでしょう。老人には老人なりの優れたやり方があるはず。そう信じて鍛錬を重ねていこうと思っております。老後の初心。
かく、理性だの知性だのを持って、自律しながら人は夜学バーにいます。そのような場所を志しています。そういう人たちが同じ空間を共有した時、何が起こるか、というのが夜学バーの肝となる部分です。
何も起こらないかもしれません。誰ともろくに話さず帰ることだってあるでしょう。夜学バーでは「会話」というものを強要も推奨もしません。思い思いの学びを持ち帰っていただけば良いと考えております。
ただし、「学びが生じる可能性」を高めるのはお店の役目。「はい、とりあえずこういうコンセプトでお店を作りましたんで、あとはお客さんがた、ご自由に。ファイッ!」←こういう無責任なお店が僕は原則あんまり好きではありません。「デザイン(設計)」と「常に調整すること」の両輪で場は生きると僕は考えております。
では、夜学バーはそのデザインや調整として、どのようなことを具体的に実施しているのか?ということについては、ぜひ
テキスト
ページを徹底的にお読み込みください。
ただの小さな飲食店ですが、ご来店いただき、「そういうつもり」で座ってみていただくと、「なるほど」と思うことがそれなりにあるのではと存じます。
「学ぼう」という気持ちで座ってみてください。「何をすればいいんだ?」と混乱するでしょう。そこで多くの人は「質問」ということをします。「質問」は、「知らなかったことを知る」「わからなかったことをわかる」ことを手軽に実現させます。最短距離です。
しかし「質問」とは危険なものです。質問とは要求です。「答えろ」とナイフを突きつけるようなものです(大げさですが、そんな気分になることはたまにあります)。
質問は、自分の知りたいことを知る、その欲求を満たすためには最も簡単ですし、「会話の糸口を探る」ための常套手段でもあります。ただし、質問には強弱があって、「いま雨降ってました?」くらいの軽いものから、「お名前は?」「お仕事は?」「お住まいは?」といった重いものまで。
実のところバーとか小さな飲み屋さんに行くと、名前や仕事や居住エリアを聞かれることがけっこう多いのですが、僕はこれをかなり「重たい」と感じてしまいます。もともとはコミュニケーションが得意でないのです。がんばってできるようになったのだし、いまも勉強中なのですsoul。苦手だからこそ、「どういうふうならつらくないのだろう?」ということを考え詰めて、こんなお店を開いてしまった、ということでもあるのです。
質問をする前に、これは相手にとって重たくないだろうか、辛くないだろうか、と考えると、いったん何も訊けなくなると思います。それで多くの人が絞り出すのが、「常連さんですか?」「ここにはよく来られるんですか?」です(お客さんがお客さんに話しかける場合)。
これは強弱で言えばたぶん「中パンチ」くらいですが、この質問に「ええ、常連です」とか「よく来ます」と即答した人は、夜学バーはもちろんこれまでに僕が訪れたあらゆるお店で、一人もいません。天気ほど弱くもなく、住所氏名ほど強くはない「中パンチ」。それに対してほとんどの人は「あー……」とまず絶句し、「たまに……」とか「まあ、そこそこ通ってはいます……」と返します。
そもそも「常連」というものの定義は曖昧ですし、夜学バーに関しては全力で「常連」なる概念を拒絶、排除してきておりますから、「自分は常連である」と思うチャンスはほとんどないと思います。詳しくは
このコラム
をお読みください。
ところで、常連かどうか、よく来るかどうかをたずねるのはなぜなのでしょう? 基本的には「なんとなく」なのでしょうが、ちょっと考えてみます。
おそらく、「その人のこのお店での立ち位置を知ってから、自分の振る舞い方を考えたい」というのがあるでしょう。無意識にその場を「コミュニティ」として捉えているのだと思います。つまり、パワーバランスを知りたいと。
ふつう「コミュニティ」というものがあったら、まず「誰が偉いか」「どの順で尊重すべきか」を考えるのが世の中というものらしいのです。目の前にいる人の「偉さ」をまず知っておかないと、思わぬケガをしかねません。
夜学バーは絶対に「コミュニティ」のようにはしたくありませんし、「よく通っているから偉い」「たくさんお金を払うから偉い」ということは絶対にありません。「返報性の原理」というのがありますが、これを僕はがんばって、意識的に、排斥しようと努力しています。少なくとも金銭的な領域に関しては。
もっと素朴に表現すれば、「相手の相対的な立ち位置がわからないと、自分がどう振る舞ってよいのかわからない」というようなことでしょうか。相手の肩書や身分、誰かとの関係、そういったものがわかったうえで、それを踏まえてコミュニケーションするのが社会(大人の世界)なのです。
子供の世界は違います。相手がどんな背景を持っているか、ということはほとんど関係ありません。ただ目の前に誰かいて、その人と自分とはどう接するか、あるいは接しないかを単純に考えます。「あの子は私の仲の良い○○ちゃんと仲が悪いからわたしもしゃべらないようにしよう」みたいなことを考え出すと、これは大人の領域に足を踏み込んだということになる、ような気が僕はしています。
自分の外部にあるもの、相手の外部にあるもの(氏名、仕事、住所いずれもそうです)を勘定に入れて相手との関係を考える、というのは「社会しぐさ」なのだと僕は思うわけです。そして夜学バーというものを「社会」にはしたくない、というのが店主たる僕のめあてです。
飲み屋というものには、「社会やコミュニティから逃げこむ場所」という側面があります。ところが飲み屋もすぐに「別の社会」「別のコミュニティ」となってしまいます。「サードプレイス」という表現はじつに象徴的で、ファースト、セカンドの延長にあるものでしかないのです。そういう場所も大切だし、僕もそういう愛する空間を複数持っているのですが、同時に「そうではない場所」も必要だろうと強く思っています。
「常連さんですか?」という質問が含意するのは、「あなたはこのコミュニティの一員なのですか?」なわけです。つまり、「あなたとわたしの間には線引きがありますか?」と訊いているのです。
「線引きがありますか?」と訊かれて、「あります」と答えるわけにはいきません。わざわざ分断を明確にする必要はないのです。だから一人として、「はい、常連です」とは答えないのだと僕は思います。
組織とかコミュニティのような固く「仕上がった」場所だけでなく、定まらない流動的な空間も世の中にはあったほうがよい、というのは、「AかBか」という択一的な思考からすら自由になれるから~みたいな話は大風呂敷すぎて恐ろしいのでほどほどにします。
白黒はっきりしていたほうが安心という感覚。未知に飛び込むより事前にわかっていることを確かめにゆく(答え合わせ)ほうが効率的という算段。どちらも世の中を上手に生き抜くために至便のものです。ただそれと「学び」なるものとは切り離しても問題はたぶんありません。
この文章は2023年7月に書いております。開店からの6年3ヶ月間で考えたことを改めて、煮詰めて煮詰めて言語化しております。筆が乗ってくるとついわけのわからないほうへ行ってしまいます。ちょっと戻します。
質問の話をしていたのでした。ずけずけと他人の個人情報に踏み込むタイプの質問は、さっきの言い方に倣えば(やや乱暴ですが)「線引きをなくす」機能を持ちます。「こっちのコミュニティに入りませんか」あるいは「そっちのコミュニティに興味あります」。個人情報を直接に明かしたり聞き出すことは、「仲間入り」の儀礼にもなりうると僕は認識しています。人と人との距離を無条件に、力づくに近づけてしまうからです。
賢明かつ慎重な方がそれを避けて採用しがちなのは常連かどうか(通っている期間や頻度、帰属意識など)をたずねる質問で、これは「線引きの有無を確認する」機能を持ち、「あなたはこのコミュニティの一員ですか?」を意味する、と先ほど僕は書きました。
いずれにしても「コミュニティ」というものの存在を前提にしている、というのが私見です。実際バーなどの小さな飲み屋というものは、あるいは飲食店でなくとも、社会にある「人の集まり」のほとんどは「コミュニティ」であり、そうであろうと努めているように思えます。
思考を噛ませる その都度考える 常連ですか?という凡庸な質問は自分を殺してあえて言っているのかもしれない 常連への出世魚じゃねえんだよ 初めての人が常連だと思われる店
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