ギン/夜学バーの人員(star)

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所信1(2026/01/28)

視察レポート BAR 星くず(2026/06/08)

 おはこんばんちは。はじめましての方ははじめまして。ギンです。昼間は大学で植物研究の末席を汚しております。夜間は寝たり起きたりしております。2025年の3月末に初めて来店し、以降様々な紆余曲折を経て夜学バーに立つ運びとなりました。

 学生である私の本分は勉強ないし研究ですが、本分以外の時間の多くは音楽に費やしてきました。私の専門である「生物学」と「音楽」に共通するキーワードが「再生」です。「再生」は私の人生の主要なテーマの一つです。

 植物は非常によく再生します。我々人類含め動物の身体も再生しますが植物の再生力には劣ります。我々の再生力は概ね傷や病気が治る程度ですが、植物は葉っぱの切れ端一枚からまるまる全身が再生することさえあるのです(詳しくは「再分化」でご検索ください)。
 音楽もまた再生するものです。様々な媒体で再生されます。私は4年ほど学生オーケストラ団体に在籍しておりましたが、高名な諸先生方には「音楽はナマモノ」という旨のご指南を度々賜りました。「音楽」そのものは、普段は形而上の世界に潜んでいますが、「再生」によって生きた形を持ってこの世界に姿をみせるものだと私は認識しております。

 二つの世界に共通する「再生」の本質とはなんなのか。私は、「変化して、同じすがたであらわれる」ことだと理解しております。
 植物が再生した時、同じ個体の葉っぱでも、それは再生前の葉っぱがそのまま戻ってきたわけではありません。同じ曲でも演奏毎に違いが生まれますし、たとえ同じ音源を聴いても聴こえ方は毎度異なるでしょう。
 私は常々「再生したい」と思っております。それは「成長」と言い換えられる時もあれば「上達」や「回復」である時もあるかと存じます。時には「贖罪」であるとも思います。 夜学バーには様々なお客様がいらっしゃいますが、同じ組み合わせの人が居合わせることも珍しくありません。しかしそのような場合でも同じ会話になることはありません。再生していると感じます。

「音楽はあらゆる場所で常に流れていて、私はそれを掬い上げているだけ」という旨の発言をした音楽家がいます。これは音楽に限らない話だと考えております。
 夜学バーには潜在的にあらゆる場が存在しているのだと信じます。再生するためにあらゆる人とお会いしたく存じます。
 ギンでした。バイちゃ。

iPhoneから送信(2026/01/28)

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●ホームページ「回転機関

《店主より》
 つい数日前、お店に遊びに来たギン氏は連日の寝不足と疲労と飲酒によって憔悴しきっており、そのせいでもないでしょうが約1年前はじめて夜学バーに来た時のことを思い出して語ってくれました。その日のことは僕もよく覚えております。他にお客はなく、いくらか世間話のようなことをしたあとで研究内容について詳しく説明してくれたのでした。勝手に語り出したのではなくて僕が「ほうほうそれでそれで」と引き出したのだと記憶しています。それは植物の「節」についての話でした。花や実、葉などに比べると「節」の研究は他の部位よりは遅れていて、研究の余地が大きい分野なのだということだった気がします。イチゴやレンコンなんかを例に決して易しくはない内容を可能な限りわかりやすく話してくれました。僕は完全に専門外なのですが好奇心に任せて一所懸命くらいつき、それはこういうことですか、すなわちこういうふうに考えて良いのですかと確かめながらできるだけ本質的な理解を得ようと努めたはずです。その時の僕について彼は「この人はちゃんと話を聞いている」と感じ、それで通うようになったといいます。実際まさにその次の日にも彼は足を運んでくれたのです。ドラクエの話なんかもしたね。
 記憶が新しいのでつい書いてしまいますが、数日前の彼はこのように言いました。「自分の研究内容を人に話したとき、そのパターンはだいたい2,3に分けられる。聞いたことをほとんど踏まえずに我田引水してほぼ関連のない自分の話を始めるか、難しいねと言って終わらせるかが大半。下に見るか上に見るかの違いだけで、突き放すという点で共通している。ちゃんと話を理解しようとしてくれる人は少ない」と。
 ふつうの飲み屋においては、確かにその2パターンにだいたいおさまるでしょう。夜学バーの特異で素晴らしい(自画自讃)ところは、「ちゃんと話を聞いて理解しようとする」ことに本質があります。難しいなら難しい、わからないならわからないとは表明しつつ、「それはこういうことですか」を積み重ねて少しでも理解に近づこうとする。(それはその場にいる「みんな」で行うのが原則だが、誰も不快にならない前提において、その中の誰かには参加する必要がない。)
 初来店において彼はそれを経験し、気に入ってくれたわけです。ここにおいてギン氏は夜学バーのあり方を愛し、維持を担うのに適した人物だと思われます。彼の根底にあるものは孤独で、「誰もわかってくれない」という悲しみに満ちています。しかしその先に生まれるのは絶望ではなく、「誰かにわかってほしい」という渇望です。ゆえにこそさまざまな飲み屋などに顔を出し、時には一か八かで自分の研究について話し(これはある種の試し行動かもしれない)、落ち込んだり喜んだりしているのだと思われます。そこでの喜びとは「わかってくれた」ということではもちろんございません。「わかってくれようとした」ということが一番の幸福です。これこそが僕がつくりたいと思っている「場」の真髄なのであります。
 本文にある植物と音楽の「再生」の話を彼は全身全霊で書いています。簡単でとっつきやすい内容ではないのですが、彼なりにできる限りわかってもらおうとしているように見えます。この祈りが誰かに届くように僕も祈ります。(2026/2/13)

●視察レポート BAR星くず
 谷中は初音小路の入口角にある「BAR 星くず」に向かった。レコードバーだと聞いている。ほぼ満席だったが、カウンターの後ろにある小さなテーブル席に座れた。時刻は22時半。店主がカウンターの客に「バイト頼んでもいいすか」と声をかけ、僕のところにメニューやおしぼりが回ってくる。チャージ500円でドリンクは大体1000円前後。戸河内のハイボールを注文する。大瀧詠一が流れている。
 思ったより若い人もいるな〜、店内禁煙なんだ〜、あんまり積極的に客に絡まないんだな〜、などと観察しながらしばらく過ごす。カウンター席が空いたのでそっちに移る。これでお店の人と喋れるぞ〜。
「お近くですか?」と聞かれた。!。この質問は凡テンダー(凡庸なバーテンダー)の典型質問であり、夜学バーにおいては推奨されないものとしてしばしば話題に上がる。その理由がこの時初めてちゃんと分かった気がした。
 この質問は
・リスクが小さい。聞かれて嫌な気持ちになる人はそうそういないだろう。
・店にとって、その客が来店しやすいのかどうか(=常連になりうるか)わかる
・周辺の別の店とその客の関係がわかる
というようにとても機能的である。実際これを聞かれた私は、全然嫌な気持ちにならない。凡庸だということは、つまりある程度の妥当性が大抵あるものだ。
 夜学バーには「凡庸を避ける」とか「まず自分が楽しむ」みたいな作法があって(これがだんだんとわかる)その根底は「一座建立」、「一期一会」である。同じ場は二度とない。同じ人にまた会えるかはわからない。常連などないからである。相手を細かに観察し、真心を込めて応対し、かつ「場」を一番に尊重し作り上げていくならば、「お近くですか」という質問が最適解になることはあまりないだろう。
 何が言いたかったかというと、「BAR 星くず」での問答を通して夜学バーの理念への理解が深まって良かったということで、「星くず」の応対を非難しているわけでは全くないです。むしろとてもいい時間を過ごせた。24時前退店。「普段は全然違う静かな感じなので、懲りずにまたぜひお越しください。」と店主。また来てゆっくり話したい。レコードバーに結構行ったことがある人間として、最後に「星くず」の素晴らしかった点をいくつか書き記しておく。
・基本一曲ごとにレコードを変えていた。DJを雇っているようなところでなければ、片面通して再生する店がほとんどである。3~5分ごとに操作が必要なわけで、多分すごく神経を使う。結構すごい。
・帯が綺麗に残っているジャケットが多い。とても丁寧にレコードを扱っているのだとお見受けした。入店して最初にそれが目について、すごく好印象だった。
・選曲や音量を、店内の様子を見ながら細やかに調整している。店主はすごく店内を見ていると感じた。
 いい勉強になった。夜の学びは続く。

「招いた者(亭主)と招かれた客の心が通い合うと、とても心地のよい空間が生まれます。このことを茶道において『一座建立』という言葉で表現します。また、『一期一会』という言葉があります。一期は一生、一会はただ一度の出会いを表します。稽古でも茶会でも、日常においてもその瞬間は二度と巡り会えないものであるという教えです。」(裏千家ホームページより)

《店主より》
 仰る通りで夜学バーのような「わざわざ型」かつ来店めあてのハッキリしないお店において「お近くですか?」が最適解となることはほぼないし、むしろマイナスの効果を生みやすい。一方で、
《凡庸だということは、つまりある程度の妥当性が大抵あるものだ。》
というのも完璧な真実で、みんながやってるってことはそれなりのポジティブな理由があり、僕もこの「お近くですか?」の機能性は十分認めている。詳しいことは8月下旬くらいに出版されるはずの拙著で。
 ただし、効率を重視するあまり「それが機能しない場合」ないし「副作用やエラーを起こす場合」を想定しない、もしくは軽視してしまうことはありがちだ。個人的には! いかなる場においても理由なくそんなこと聞かれたくない。ギン氏は《リスクが小さい。聞かれて嫌な気持ちになる人はそうそういないだろう。》《実際これを聞かれた私は、全然嫌な気持ちにならない。》と書いているが、僕は嫌な気持ちになる。嫌というか、圧迫されるような緊張感が襲ってきて辛い気持ちになる。イエスかノーかで答えなければならない質問がそもそも苦手なのかもしれない。それが個人情報や内面、感情などにかかわるものであればなおさら苦しい。「お近くですか?」は僕にとって「恋人いますか?」「殺したいほど嫌いな人間いますか?」などと同じようなものだし、よくよく考えると「たばこお吸いになられますか?」もけっこう嫌というか、うむ、嫌である。(どうせ全員に聞くなら全席に灰皿を設置してもいいのでは?)「暑い?」「エアコン効き過ぎ?」とかもできれば言われたくない。「いま雨降ってました?」なら個人の問題ではなく客観的事実なのでそれほど気にならない。
 ただそれは僕がたまたま抱く(ギン氏によれば)少数派の意見であって、無視できる小さなエラーであろう。しかもそれを「エラー」と切り捨てることは明確に適確に客を選ぶ。つまり、「お近くですか?」という質問は僕のように面倒くさい、どうでもいいことをいちいち気にするような人間を弾く機能さえ持っているのだ。大多数の人間に通用する当たり障りのない言葉にいちいち引っかかって「凡庸」などとバカにしてくる客は不快だし危険なので、その時点で察知できておいたほうがいい、という考え方はありうるし実践的で、妥当性が高い。
 店のスタイルに合わせて店づくりは徹底され、コミュニケーションのあり方も店によって違う。何が正解とか優れているということはなかろう。ただいろんなお店に行くと相対化ができて、いろんなスタイルが見えてくる。そのためにこの「視察」という企画を立ち上げたので、ギン氏が《「BAR 星くず」での問答を通して夜学バーの理念への理解が深まって良かった》と書いてくれているのは非常に嬉しい。

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